コラム
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丹波発: ついに熱中症に!
夏祭り(赤山祭)の準備で
8月18日(土)は、わが村(春日町野上野)の「赤山祭」という夏まつり。
村に13組ある組長は、朝8時からお寺の境内(桂谷寺・天台宗)でその準備にかかっていた。テントを運んで組み立て、椅子やテーブルを並べ、射的やくじ引きコーナーにブルーシートを張り、盆踊りの櫓を建て、ちょうちんを巡らしていった。
総勢30人ほどでかかっているので、作業は早い。誰が指示するでもなく、手の足りないところに体をもっていく。
ペットボトルのお茶をがぶがぶ飲みながら、適当に休憩もとっていたのだが、11時過ぎに終わりかけた頃だった。後頭部に頭痛がして、吐き気もする。水分をとりすぎて血中の塩分が薄まってしまったか! これはいかん、早く家にもどってシャワーでも浴びて、と思うけれど、なかなか「解散」の合図がない。
それから半時ほど、じっと待つしかなかった。村を見降ろす高台から向こうの山をのぞむと、戦国時代であれば、のろしが見えるところだろう。明智光秀の丹波攻めのときにも、のろしを合図に、こうして村人たちは団結して戦準備にかかったのだろうと、痛い頭をかかえながら想う。
野上野の人口の3分の1?
家に帰るとすぐ風呂場にかけこんでシャワーを浴び、冷蔵庫のアイスノンをタオルにまいて枕に置いた。わが家は同じ集落の人もうらやむ涼しさだが、真夏の日中はさすがに参る。家には天然クーラーしかないので、クーラーを入れている事務所の床で寝ころんだ。1時間ほどして頭痛と吐き気はおさまったが、睡眠不足でもあったのでしばらく寝ていた。途中でクーラーの寒さに起きる。頭はすっきりしていたので、読みかけの『豊穣の海、第4巻』(三島由紀夫)を読みはじめたが、すぐ眠気におそわれて続かなかった。
2時過ぎに起きてから朝食兼昼食の冷やしたざるうどんを食べ、生き返った心地で、再び3時集合の祭り会場へいく。それから夜の9時半まで赤山祭り。
まだ陽の明るい6時ころから人が集まりはじめた。櫓にのぼってみると、ふだんはまったく見かけない小さな子供連れの家族が多く、野上野の人口の3分の1ほど(200人以上)が集まっているようだ。やきとり、ヤキソバ、綿菓子、かき氷、生ビールなど屋台店は総務部の組織で運営し、金魚すくいは老人会、組長たちは射的やくじ引きコーナーなどを担当する。とくにおもちゃを当てる射的コーナーは子どもたちに大人気だった。
8時頃に盆踊りが始まると、1組の組長として、プラカードを持ってその輪に入る。丹波市音頭、黒井音踊り・・・手足の動きはばらばらだ。手をあげて適当にくねくねと体をゆらせばいい南国奄美の踊りとちがって、この盆踊りは単純だが手足の順序がある。熱中症はすっかりおさまってはいたが、ぼくはひとり南国風にふらふらと足を運んでいたのだった。ぼくの前にはカミさんが楽しそうに踊っている。輪のなかで、移住8年目にしてようやくぼくら夫婦も「村人」になったなぁ・・・と感慨しきり。
中国から招いた神様であるぞ
ところで、この赤山祭のいわれは、その昔(年代は不明)、この村に厄病が蔓延して多くの犠牲がでたらしい。そこで、京都の伏見稲荷から「赤山明王」という神様の分霊を請じて祀ったことにはじまる。少なくとも200年以上前のことらしいが、記録ははっきりしない。
お寺には「赤山明王」の掛軸と、この明王を請じるまでの絵巻ストーリーが3幅の掛軸になって残されている。「中国から来た神様」といわれる赤山明王は鮮やかな赤い服を着て、黒々した長いアゴヒゲをのばし、右手には漢方医の象徴のような葉のついた長い錫丈をもち、少し飛び出た大きな目がこちらをにらんでいる。不動明王のような怖さはないけれど、とにかく、疫病を退治してくれそうな堂々たる威厳を放っている。
そもそもこの夏まつりは、「赤山明王」によって救われたことが始まりであるので、夕方6時半からお堂の前でお経を唱えることから祭りが始まる。ご住職のお経のあと、子ども会の子どもたち、組長たち、老人会の人たちが、「般若心経」を3巻唱和した。古い言い伝えを守り、こういう儀礼をちゃんとするところは田舎の田舎らしい、よいところである。
それにしても、中国の神様であるか・・・日本は漢方をはじめ中国文化にはお世話になってきたけれど、いまの中国のことが頭に浮かぶと、なんとなく複雑な思いがする。(村長 平野)