百姓の定義づけ

永遠の見習い百姓

 「百姓って、いい言葉だなぁ」と、永遠の見習い百姓を自負するボクは思う。実際、農業にこだわりと愛着をもつ篤農家の多くは自らの職を、百姓と呼ぶ。なぜか、農家とは言わないのだ。また逆に一般農家の人たちは、百姓という言葉をあまり好まない。長い間、非差別用語みたいに使われたりしたこともあったからだろう。水呑み百姓という言葉があるように、貧農の3Kイメージもこびりついている。
 ある篤農家は、農家と百姓との違いについて、こんなことを言っていた。

農家と百姓との違い

   「一般的に日本の農家というのは、生活の一部の足しとして農業を営み、有機無農薬農法にはあまりこだわっていない。それはそれでいいのだけど、百姓は自分の人生をかけて、その人なりにこだわりの農法をもっている。要するに自分なりの哲学を持った人が百姓だと思う」と。
なるほど、そうかもしれない。彼は一般農家を見下げているわけではないけれど、化学肥料や農薬を使う慣行農法を続ける農家に対しては、信条の上で一線を引いている。
近年、安全・安心のニーズの高まりにより、一般農家も農薬使用を減らしてきてはいるが、農薬なしで農業はできないと考えている人が大半だ。かつては、出荷する野菜には農薬を使い、自分の家で食べる野菜には農薬を使わないといった話もよく聞いたけれど、最近はそういう不心得な農家は少なくなっているはずだ。そう思いたいし、私の知る限りでは、出荷と自家消費の野菜の区別をしている農家はいない。
いずれにしても今日では農業を営む人が、百姓を自称するのは少数派だろう。

 「天下万民」から農民へ

  百姓という言葉の由来をたどってみると、時代によってずいぶんその意味が変わってきている。
まず、漢語として生まれた中国の周代から春秋時代においては、「姫」や「姜」といった「姓」を持つ古代の族長層のことを百姓と言っていた。やがて族集団が解体していくと、庶民でも持つ家族名の「氏」と本来の「姓」が混同していった。そして、庶民でもほとんど姓を持つようになり、百姓は「天下万民・民衆一般」を指す意味になった。その後も中国では意味が大きく変化することはなく、現在でも老百姓といえば、一般庶民のことを指すという。
日本にこの語が入ってきた当初は、中国と同じく「天下万民」(天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民)を指し、和訓では「おおみたから」と呼ばれた。だが、古代末期以降には、多様な生業に従事する特定の身分を指すようになっていく。具体的には、支配者層が在地で直接把握の対象とした人々、農業だけでなくあらゆる生業の人を百姓と呼んだ。ところが中世以降(9世紀末)になると、百姓の本分は農業であるということになり、その概念がしだいに狭まり、江戸時代には百姓=農民という意味に定着して現在にまで至った。

多くは半農半Xの生活

   しかし農民の実態はどうであったかというと、実際の村落には現代の「兼業農家」よりもはるかに多様な生業を持つ農民たちが住んでいた。大工・鍛冶・木挽・屋根屋・左官・髪結い・畳屋・漁師・医者、商人、神職もいれば僧侶もいた。すなわち半農半Xの生活だった。
にもかかわらず特に戦後の歴史観ではマルクス史観の悪影響もあり、江戸時代は士農工商という封建制度の下、百姓=農民たちは収奪される被支配民という見方が一般化してしまった。
たしかに武士と農工商の間には身分の固定があったにしろ、また、飢饉のときには餓死するような貧しい農民すなわち「水呑み百姓」が圧倒的に多かったにしろ、武士を見下ろす富豪の商人たちも少なくなかったわけである。大多数の貧乏武士たちは、暮らしの足しに家庭菜園をつくっていた。
時代劇ではとかく悪代官に泣かされる農民のシーンが多いので、よほど窮屈な封建社会と思いがちだが、半農の流れ職人や商人も数多く全国を渡り歩いていたのである(近年、歴史学者の網野善彦は、中世・近世社会の百姓身分は広範な生業を持っていたことを明らかにし、「百姓=農民」という従来の歴史観を批判した)。(「天下万民」から以上、ウィキペディア参照)

宣言すれば百姓になれる?

   まぁ、このように百姓の意味合いは時代とともに変わってきたが、本来の意味は生業の区別ではなく庶民全般を指していた。その意味では現代の給与生活者も百姓ということになるが、ある篤農家はこんなことも言っていた。
「自分が定義する百姓というのは、農的暮らしを中心に据えながら農業を営み、人生を豊かにするために、いろんなことにもチャレンジする人」と。
だとすると、田舎にはそんな百姓が少なくなる一方だが、最近は新規就農する若い人たちの間に、農家ではなく百姓志願が多くなっているように思う。農法は有機無農薬にこだわり、右肩上がりの経済主義的生き方よりも、つつましくも豊かな農的暮らしを求めているからだ。
では、専業として農業を営まなければ百姓になれないのかといえば、そうではないだろう。サラリーマン生活をしながらでも半農半Xで百姓になれると思う。週末農業でもやって、「自分は百姓だ」と勝手に高らかに宣言すれば百姓になれるのだ。要は、その気持と実践あるのみ。そんな人たちが増えてくれば、日本の農業の未来も地域社会も明るくなると思うのだが・・・さて、どうだろうか。  (2011.10.7  永遠の見習い百姓  空太)