よく噛んで、みんな血にするんだぞ。

さあ、来い、老人は気をとりなおして、引き綱の傾きにそって、暗い水のなかに視線を落とした。

食わなくちゃいかん、手に力をつけてやろう。手が悪いんじゃない。おれはずいぶん長いこと魚と格闘してきたんだからなあ。いや、おれは最後までやつにつきあう気でいるぞ。さあ、鮪(まぐろ)を食え。 
かれは小さな切身を取りあげ、それを口に入れてゆっくり噛んだ。まずくはない。
よく噛んで、みんな血にするんだぞ。ライムかレモン、せめて塩でもあれば、まんざらでもないんだが。
「どうだい、ぐあいは?」かれは左手に向っていった。それはほとんど死後硬直に似た症状を呈している、「おれは、お前のために、もうすこし食ってやるぞ」
老人は引き裂いた残りのひときれを口に投げいれ、丹念に噛んで、皮を吐きだす。
「利くかね? ふん、そう早くはわからないかな?」
かれは新しい切身を丸のまま取って、噛みはじめる。
「血ではちきれそうじゃないか、こいつは」とかれは思う、「鱪(しいら)でなかったのは、もっけの幸いだ。鱪は甘すぎる。こいつはとてもうまいとはいえないさ。だが、このなかには力がいっぱいつまっているんだからな」
それにしても栄養一点ばりというのも芸がない話だ、とかれは思った。塩があればいいのになあ。いや、陽にあたると腐ってしまうかもしれないから、腹はへっていなくても、みんな食ってしまったほうがいい。敵は落ちついていて、すこしも乱れを見せない。こっちは食えるだけ食って、お待ち申しあげることにしよう。

 出典:『老人と海』ヘミングウェイ/ 福田恒存 訳 新潮文庫