「われ思う、故にわれなし」


 I  think, so I am not.
             Sakurazaw Yukikazu


 桜沢如一は、青年(西尾康人)に一枚の色紙を渡して別れた。その色紙に書かれていたのがこの言葉だった。桜沢51歳。私を超え、死を超えた、深遠な言葉である。

ときは終戦7カ月前の、1945年1月。桜沢は秘めた決意をもって、満鉄に勤めていた青年に突然面会を求めた。
 青年は、桜沢如一が発行する食養学の機関紙「むすび」を購読し、文通も何度かあった。が、高名な学者である桜沢が、面識もない自分(当時24歳)に会うために、はるばる海を渡ってきたことに驚きと感動をおぼえた。

  桜沢は、日本の敗戦後のシナリオを胸に秘め青年を訪ねたのだった。国内はすでにB29をはじめ米軍爆撃機の空襲で悲鳴をあげていたが、満州はまだのんきに構えていた。
「ハルピンは平和でしょう! 敵機は来ないし」と青年が言うと、
「敵機か、飛行機はネ、君、北から来るよ」
「まさか・・・、ソ連との間には中立条約がありますよ」
青年はそう応えたものの、不吉な予感がして、
「それじゃあ、一体われわれは・・・」と言うと、
「逃げるんだね!」と、桜沢はきっぱり断言した。
やがてホテルの一室に入ってから、桜沢は声を落とし、
「戦況は破局的である。あと一年ともつまい。起死回生の手を急いで打たないと日本は壊滅する」と言って、胸の内を明かした。
   桜沢は、政府首脳や参謀本部に対して、いろいろ進言してきた。しかし彼らは一切耳を貸さないばかりか、「敗北主義者」「危険人物」のレッテルをはった。その上、桜沢の著書数点を発禁処分にして、特高(特別高等警察)が尾行をはじめたのだという。そんな日本を脱出してきた目的は・・・?
  「日本での和平工作は難しくなったが、日本を救う道はまだ残されている! ソビエトによる調停である」
 「クレムリン(ソ連中枢)と接触しようと思う。だからロシア語のできる君に手伝ってほしい」、というのが桜沢の目的だったのだ。
  結局、最初の突破口であるソビエト総領事館に密書を届けることすら叶わず、二人は別れることになる。
間もなく敗戦、ソ連は中立条約を破り満州に侵攻した。桜沢は敗戦間際に逮捕されており、青年は9年に及ぶ「シベリア抑留」という地獄に送り込まれたのだった。
I think, so I am not.
無私(無死)の精神、逆説的信念。
それにしても桜沢如一という人は、「哲学者にして革命家、冒険家」と言われるが、明治(26年生まれ)という時代が生んだ日本男児、熱血漢でもある。

   (参考・引用 『心に残るとっておきの話 第一集』(西尾康人著 潮文社) マクロビオティク・マガジン  『むすび』2003年8月号掲載 より)