ついに果たす! 城山元旦登山

城山への元旦登山は丹波に移住して以来の念願だった。・・・9年目の元旦、ついに、念ずれば、花開く!

午前6時10分、ほぼ楕円の形をした中潮の月が前方に出ている。木の間から真っすぐこちらを照らしているが、ゆるやかな傾斜の山道は真っ暗闇だ。懐中電気で足元を照らしながら、霜柱で滑りやすくなっている山道を一歩一歩踏みしめていく。昨夜は一睡もできなかったのに気力も体力も十分・・・。

 我が家の畑(丹波カルデン)から毎日望んでいる黒井城は戦国時代の山城で、標高は356メートルしかないが、ここに沈む夕日が美しい。悪右衛門と自ら名付け、丹波の赤鬼と勇名をはせた赤井(荻野)直正の居城である。別名、保月城とも呼ばれている。
悪右衛門直正は、丹波奥三郡のほか、一時期は但馬・丹後にも勢力を伸ばし、明智光秀の丹波攻めのときも「赤井の呼び込み戦法」で撃退している。しかし直正の病没後、明智軍2回目の丹波攻めで落城した。光秀の重臣・齊藤利三が入城し、娘のお福こと、のちの春日局はこの地で誕生している。 
明智軍に城内の井戸の源流の所在を、村人が教えてしまったために籠城戦ができなくなって、城を明け渡したとの伝説が残されている。その真意はともかく、竹田信玄があと数年生きていたら、直正が生きていたら戦国地図は大きく変わっていたにちがいない。

 丹波に移住して3年目に出版した『穴太の石積み』の取材で、黒井城には何度か登っている。落城後の修復もあったようで、穴太の石積みの初期の特徴があり、山城の石垣としてはかなり出来がいい。出版後にわかったことだが、丹波の古い寺院には、穴太積み(野面積み のづらづみ)の特徴を示した石垣がずいぶん見られる。信長の安土城は立派な城郭石積みという意味では穴太積みの原点だが、野面積みそのものは、それ以前からずいぶん各地に普及していたようである(写真は元旦に撮影、二の丸石垣と本丸石垣)。

丹波ニューツーリズムのイベントでも城山には何度か登っている。通算10回ほど登っているかもしれないが、うちのカミさんはまだ一度も登っていない。
なので、「今年こそ、城山の元旦登山をしよう」と、毎年のように自分と妻に言い聞かせながら果たせないできたのだった。
この元旦登山は、3つの集落を合わせた「春日部地区」の恒例イベントだ。そのチラシの文言を、カミさんは声を出して読み、ふたりで大笑い。

「朝に強い子、この指止まれ!!
元気な者だけのご褒美だ!
朝に弱い子、目を覚ませ!!
寒がりは寝ていろ!!
置いてけ放りだ!
寝正月? 一生寝ていろ! 時間の無駄だ!!」
ここまで言われたら、今年は絶対行くしかないではないかと、覚悟を決めたのだった。

年末の大掃除のとき、吹き抜け天井の梁を長梯子にのぼって清めるのが大仕事で、他にも何だかんだと慌ただしく、紅白歌合戦を聞くともなく聞いて年が暮れてしまう。除夜の鐘が終わるころに近くの熊野神社にお参りすると、電池が切れたように体が動かなくなった。そこで年末の大掃除は早めに始め、ほどほどに切り上げて、余裕をもって年の瀬を迎えることにした。そして「世相と社会勉強のために紅白歌合戦」を観終わると、4時半にタイマーをセットして、すぐに床に就いた。
ところがである。顔も名前も知らない若い歌手たちの、似たり寄ったりの歌詞とリズム、にぎやかに叫ぶだけの歌が頭に響いて、いっこうに寝付けない。結局ほとんど一睡もできないまま4時半に起きてコーヒーを飲み、集合時間は6時なので5時半には車で家を出た。集合場所は車で5分、城山の北東側の麓にある円光寺の駐車場。世話人の人たちが境内の一画で大きな火を焚いて迎えてくれた。

 6時ちょうど、自治会長の挨拶のあと稲荷神社の鳥居をくぐって出発した。山頂まで約40分で、日の出時刻は7時10分頃だという。早ければ30分で山頂に着いてしまい、日の出を20分以上待つことになる。
「山頂はものすごく寒いでなぁ・・・」と誰かが言った。参加者は小中学生の家族連れなど100名余りが、一列になってすすむ。ゆっくり行こうと思い、列の後方についた。出発前に番号札を渡され、妻は61番、ぼくは62番だった。 
これまで南西側の登山口から何度も登っているが、北東側からは初めてだった。「1カ所だけロープをはった急傾斜があるだけで、アップダウンはそれほどきつくない」と説明を受けていた。
この城山は南北に裾野が長く伸びて小高い山に連なり、北東側には乗馬の戦闘訓練がおこなわれていたという「百間馬場」と呼ばれる平坦地があり、遠くに眺めてもそれらしい地形がわかる。歩き出して15分ほどしたころ、その百閒馬場に至った(撮影は明るい下山時)。いまは幅1メートルほどの山道の左右に樹木が迫っているが、おそらく当時は幅数メートル、長さ300メートルほどの馬場だったのだろうと想像する。百間馬場がつきたあたりに東出丸跡も残っていたが、いかに守りを固めたとしても万の大軍に攻め込まれて火でも放たれたら、こんな山城はひとたまりもないだろう。
敵軍に居城を突かせないために、周囲には山城や砦などが張り巡らされている。ぼくが住んでいる野上野の小高い山にも砦があり、そこからは戦国期の矢先や刀などが出てきたそうだ(その矢先をぼくは村人から預かっている。実寸30㎝)。
明智軍は2度目の丹波攻略のさい、再び「赤井の呼び込み戦法」をさせないため、篠山の八上城包囲中に、南の柏原町に金山城を築城し、東は三尾山の山城を落とし、黒井城を孤立無援にしてから攻め込んでいる。「黒井城内の井戸の源流の所在」など村人から聞かずとも、明智軍の優勢はゆるぎないものだったのだ。
ところが、明智軍に井戸の所在を教えてしまったという村人の集落は、つい半世紀前までは、他村からある種の差別(その村のヨメはもらうな、といったような)を受けていたという、笑い話のような信じ難い現実がある。まさか、と思ったが、ぼく自身それと似た経験をしたことがあるのだ。
ある日、市島町の五台山ふもとに水を汲みにいったとき、どこから来たのか、と地元の老人が訊ねたので、「水道水がまずい春日町から」と答えた。すると老人は、「春日町の水がまずいのはバチがあたったんや」と、あっさり言ったのだ。井戸の在り処を明智軍に教えたからバチがあたった、というわけだ。400百数十年前の歴史が、まるで昨日の出来事のように老人の頭に残っていたことに、ぼくは心底おどろいた。ちなみに、となりの市島町は山名酒造をはじめ蔵元が4社もあるのに、春日町には1社もない。あきらかに水のせいだ。

 そんなことをつらつら考えながら月を仰ぎ、暗い足元を踏みしめて登っていく。そして汗が少し肌ににじんだ頃には早くも山頂が見えてきた。山頂近くには数年前には見なかった防獣の鉄柵が巡らしてあった。
中潮の月が煌々と本丸を照らしている。保月城という名にふさわしい幻想的な光景だ。
本丸にしばらく立っていると、針にさされるように風が冷たい。多くの人はじっと東の空を見つめていたが、カップ酒で乾杯する人、あるいはお茶を飲んだり、カップ麺を食べはじめる中学生もいた。
東の連山に雲がかかっているが、日の出とともに雲が色づき、やがて太陽の輪郭がゆるゆると雲を押し上げるように登ってきた。カメラやスマホを構えていっせいに写真をとりだしている。
「初めての元旦登山で、こんなにはっきりした日の出が見られるなんてラッキィーやね」
近所の知り合いの人が笑って言った。
そうだ、今年は春から縁起がいいぜと、耳が凍える寒風に耐えながら、自分自身に言い聞かせるのでありました。

下山後にいただいた「トン汁」のうまかったこと!
そして、登山証書をもらい、小学生のように嬉しかったこと。
ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

黒井城(保月城)  詳しくは「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E


『穴太の石積み』平野隆彰著  B5版 225P 2300円
お問い合わせ → (有)あうん社 ttp://www16.ocn.ne.jp/~ahum/