道(タオ)の原理から見た柔道とは

ロンドンオリンピックで日本の選手たちは期待以上(メダル獲得数は史上最多)の活躍をみせた。たまたま観た男子団体・フェンシングの準決勝戦で、


日本勢は残り2秒で同点、最後の1本勝負でドイツ勢に逆転勝ち。これぞサムライとテレビに向かって喝采していた。
ところが日本のお家芸と言われる柔道は、金メダルは女子ひとり、男子は銀メダルがやっと。オリンピック種目になって以来の屈辱というが、いまの柔道はレスリングのようなパワー(体)の格闘技に見える。そのことはずいぶん以前から言われているけれど、「指導」だの「有効」だの煩瑣なルールが本来の柔道をいっそうつまらなくしている。 
一本勝ちの美学にこだわる日本選手はこのルールと本家のプライドに呪縛され、期待の応援にも委縮してしまう。そんな心理を見透かしたように外国選手はルールをずるがしこく利用するから、武道の心技は筋肉力とルールに翻弄される。 
GOは『道の原理』で、講道館の創立者・嘉納治五郎を称賛した。
「最も強剛なものを柔らによって抑えることは、敵を殺したり、絶滅したりしないすることを少しも意味しない」というのが嘉納柔道の原則である。柔道を学ぶことは、ありとあらゆる病気を治す実用簡便な本当の万能薬を手に入れる、ということである。」
また、合気道の創始者・植芝盛平も称えている。
「植芝は優劣を争う試合というものを禁じている。合気道の目的は、自分自身の未熟さを学び、この世の人間的勝利のはかなさを学び、人間の弱さ、人間のくだらなさを学ぶことにある。これは、幸福で自由な人間になるための哲学的宇宙論的教育である。」
「精神文化オリンピック」を提唱したGOがいまの柔道を見たら、「筋肉や動物的器用さを競ったりする単純なスポーツ」だと嘆くだろう。
講道館柔道が世界に広まって百年余りたつが、グローバリズムは武道もスポーツ化してしまった。この際、一本勝ちの柔道と区別して、「剛体闘技」とでも名付けたほうがよいのかもしれない。 
永遠の少年GO・平野隆彰
「Macrobiotique 2012年10月号」より(日本CI協会発行)