ノーベル賞を取りにくい村上文学の構造  

「成長の時代」は、目標が自明でそこへいかに早く、効率良く到達するかを競う「Howの時代」だった。

時代の相と呼応する男性像もそこにあった。時代が回転したいま、目標は複数ありえ、どれを選択するか、「Whatの時代」になった。唯一無二の「男の理想像」も消え、したがって村上は成長した暁のあるべき「男像」を描こうとはしない。だからノーベル賞にも、また実は学校の教科書にも、向かない小説なのだ。

村上春樹になってはいけない【第10回】日本文学研究者 助川幸逸郎 
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情報提供:知恵クリップ http://chieclip.com/ > 12.10.23
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コメント:先日たまたま、古い友人と村上春樹の小説について話していた。彼はまだ読んだことがないというので、ぼくはこんなことを言った。
「とにかく彼の文章はすばらしい。まさに純文学だよ。文章は平易で流れるようにすらすら読める。ところどころキラリと光る詩的な表現にうならされる。でも読み終ったあと、しばらくするとどんな物語だったのか不思議と思い出せないんだよ。夢から醒めたらその夢をすっかり忘れてしまうように」
数日後、彼はネット上にあった村上の小説の一節を読んだ感想を言ってきた。
「やわらかい風のような文章だったなぁ・・・」
村上春樹が今回もノーベル文学賞を取れなかった理由を、「唯一無二の「男の理想像」も消え、したがって村上は成長した暁のあるべき「男像」を描こうとはしない」という分析も、確かになるほどと思う。しかし一言で言えば、「記憶に残らない・風のような意識の流れ」だからだろう。ただし、村上文学は不確定性の時代のもやっとした不安を描き出し、ノーベル文学賞に値する文学的普遍性はある。