意識と無意識の「記憶」

「右の耳に話すとよく記憶に残るそうよ。いつも左耳に話していたからダメだったのね」

食事のとき、妻が笑いながらぼくの左耳にインプットした。少し皮肉がこもっていた。
記憶はおよそ左脳が司るから右耳に話す方がよいのだという。妻の座席は常に左側なので、話すことがぼくの左脳へ到達しないというわけだ。一理あるが馬耳東風という時もある。
記憶力の悪さは自他ともに認めている。人の名前を覚えようとしないと妻によく文句を言われるし、誕生日や記念日も忘れ、好きな草花の名もなかなか覚えられない。高校時代は英単語をいっしょうけんめい覚えたものだが、砂に水を流したように消えてしまった。
博覧強記のGOは言う。「記憶力――それは、われわれのすべての知識、概念、判断力、意志、実行力、理性、表現、思想、行動の根底です」(『東洋医学の哲学』)
こういう言葉にはコンプレックスを感じてしまうが、ここでいう「記憶力」とは個の“意識”の働きによるものだろう。深層の“無意識”にある記憶は人類のDNAをも含んで無限大である。
パソコンで文章を打つようになって難しい漢字は読めても手書きでは書けなくなった。かしこいパソコンのおかげで記憶する意欲が衰えている。それにしても最近つくづく思う。右脳・左脳よりも、男脳・女脳の違いのほうがよほど大きいのではないか、と。ぼくがすっかり忘れている二人の思い出も、妻は映像のごとく細部の細部まで記憶しているからだ。ぼくの都合の悪いことは特に。何たる驚異、何たる神秘! 人類のためにも「陰・陽脳論」は研究に値するテーマだろう。
GOはこんなことも書いている。
記憶は、生きている人、肉体をもっている人、有限の世界に住んでいる人が、無限の世界をながめることであります」(『宇宙の秩序』)
ここでいう「記憶」は、意識にのぼる記憶だけでなく、無意識のそれも含んでいる。記憶力に自信がないぼくは自分の年も忘れ、無意識の記憶につらなる無限世界にますます魅かれていく。 

永遠の少年GO・平野隆彰「Macrobiotique 2012年8月号」より(日本CI協会発行)