奄美・夢の島を想う(4)神饌について

海には、あまり行きたいと思わなくなったのはいつ頃からだろうか。40歳を過ぎてからと思うが、8年前、丹波の山人になってからというもの特にそうだ。


岩場にドスンと上陸して
少年の頃は、海人だった。千葉県九十九里浜の砕け落ちる波に飛び込んで、渦のなかでぐるぐる回るのがおもしろかった(いま、そんなことをしたら首の骨を折られるだろう)。お盆になると急に波は荒くなり、鉛色になる水も冷たくなる。海は遠のいていき、夏休みもおわりに近づき何となしに寂しかった。
それからウン十年たって、すっかり山国の村人になったぼくは、たまに神戸や姫路などに車で出ると、陽光がとてもまぶしく感じる。日本海気候の影響もうける丹波の気候は、空に雲が湧くことが多く、陽光がやわらかい。そのせいか、瀬戸内海に近づくと、山人の目には光がきつく感じられるのだろう。
南国の陽光あふれる奄美ツアーの2日目(7月7日)は、加計呂麻島へ渡って海釣りへ。
この予定もまったく頭になかったので、その朝になってコンビニで200円のゴム草履を買った。海釣りなど十年以上やっていないし、釣りにあまり関心はなかったが、漁船の舳先で風と波しぶきを浴びているのは、海賊にでもなった心地の解放感。
もし船の上での釣りだったら、絶対陸で待っているつもりだった。かつて経験した、あんな苦しい船酔いはもう二度とごめんだからだが、船釣りと岩場釣りの二手にわかれて釣りをするということだった。ところが、漁船から小型船(釣り船)に乗り換えて、波が砕ける小さな請島沖の「岩場」に降ろされたのは、まったくの想定外だった。海岸沿いの岩場と思いこんでいたからだ。なんと、ボートは乱暴にもその舳先を岩の上にドスンと突っ込んで、ぼくらを岩場に降ろしたのだった。「日陰がない所」と言われていたのは、そういうことだった。船釣りの人2名は、与路島沖へ向かったらしい。

一人だけボウズにはなれない
積乱雲がどこまでも広がっていたが、岩場は日陰がなく、紫外線がきつい。日焼けから完全防備の女性たち二人は、はじめての海釣りにはしゃいで何匹も釣りあげていた。1時間半あまりの間、エサを変えるのに忙しく、男性陣のなかではぼく一人だけが「ボウズ」だった。「ボウズになることはまずない」と言われていただけに、なおさら悔しい。ボウズでは帰れないと思い、岩場にはりついていたアワビの子どものような小さな貝を3、4個、借りたドライバーではがした(地元ではこれを味噌汁に入れるといいって作ってくれたが、実に出汁と風味がよく、おいしかった)。
再び加計呂麻島の喜入昭さん(奄美まぼろし会会長で、開業医)所有の海の別荘へもどると、さっそく魚をさばいて刺身や酢味噌にあえたりして食す。いかにも熱帯魚の模様をした魚の味は、はたしてどうかと思ったが、さすがに新鮮だけあって身がしまり、淡白な味だがいける。平たいのにけっこう身がついている。サービス精神旺盛な健ちゃんはソーメンを次々とゆがいてくれた。
昼食前、目の前の海に入った。ぬるま湯の風呂につかるようだ。「もう少し沖へ行くと水が冷たくなる」と言われたが、パンツ一枚で泳ぐ気分になれず、温泉気分でしばし湯に浸っていた。つらつら思えば、海に入ったのは6年ぶりだった。

神々と一体になる神饌(しんせん)
ふだん山国の百姓もどきの暮らしをしているとつい忘れがちだが、日本人は農耕民族だけで成っているわけではない。海人の遺伝子も色濃くあるし、むしろ全体ではそのほうが濃いかもしれない。このぼくにしてもそれほど古くないルーツは船酔いなどしない海賊だったかもしれないが、山国に入るといつの間にか農耕民になるのである。
八百万の神にも海に関係する神様は多いし、神様に捧げる海山幸の「神饌」を見ても、かつては魚介類がずいぶん多かった。
平安時代初期に成った『延喜式』には、大嘗際の神饌の品目が挙げられている。
そこには神酒のほかに、あわび、イカ、いりこ、いがい(貝)、かつお、さけなどの魚類、藻葉、こんぶ、海松(みる)、のりなどの海藻類。そして山の幸としては、なし、たちばな、柿、ゆず、栗などの果実類、ふき豆、大豆、小豆などの豆類、搗きもち、捻りもち、おこし米など多種多彩である。神饌も身土不二で、地方色もゆたかだったらしい。奄美の神饌といえば、ゆたかな魚介類と南国の果樹マンゴーやバナナだろう(土産に買ったバナナは自然の甘みがあってうまかった)。
「神を祭りの場に迎え、神饌を捧げて神慮をなぐさめ、そのあと御下がりをいただいて、神と人が一体となって饗宴する、この相嘗(あいなめ)すなわち直会(なおらい)するのが祭りの本義であった」(『日本の食事文化』食の文化 第2巻)。
したがって、人間が食すると同じように調理・調製するのがふつうだったが、明治になって神道国教化の一環として、神饌品目が神社の格式ごとに決められ、大根、スルメ、昆布などを代表に、その品目は少なく地方色もなくなり、調理しない「生饌」(丸物神饌)になったという。
富国強兵のため西洋文化をせっせと取り入れた明治政府は、神道を巧みに活かしながら中央集権をはかり、神饌という食文化も均一化・平準化してしまったのである。いまはどこへ行ってもマクドナルドやケンタッキィーがあるように。
加計呂麻島の喜入昭さんの海の別荘でも本土のソーメンをたっぷりごちそうになり、ホテルでの朝食では本土のお米もたっぷりいただいた。その朝食バイキングは、2、3のメニューのほかには奄美らしさはなく、きわめて本土的に平準化したものだった(おいしかったが)。
ちなみに昨年(今年だったか?)、日本人のパン食の消費量が米食を上回ったという。だからといって、将来まさか、神饌にマクドナルドのハンバーガーなんてことはありえない。万一そうなったとしたら、八百万の神様はカンカンに怒るだろうなァ。

海に囲まれた、山の島国が生んだ食文化
ところで、アマミという地名が文献に初めて登場するのは、『日本書紀』の六五七年の項、「海見島」という表記だが、八世紀の文献には「奄美」という文字が出てくるそうだ。遣唐使の通過する海域なので大和朝廷にも朝貢したことはあったにしても、律令国家の枠組みには入らず、本土に組み入れられるのは薩摩藩の支配下になってからだった。
ところがおもしろいことに、奄美には平家の落人伝説も伝わっている。
「一一八五年、源平の壇の浦の合戦で平家は敗れ、九州南部に落ちた平資盛を総大将とする一団が喜界島に上陸。その後、奄美大島に渡り、平資盛は加計呂麻島の緒鈍に、平有盛は、いまの名瀬市の浦上に、平行盛は、いまの龍郷町の戸口に城を築いたというものだ、その三カ所には、それぞれ三人を祭る神社が存在している」(『奄美、もっと知りたい』
しかしこれらはあくまで伝説の域をでないようだ。
平家は海賊(海人)を支配下におくことで勢力をのばした。車社会で空の物流もある現代では想像しにくいことだが、海賊や海人を支配するということは交易(経済)・物流を押さえることである。その時代は江戸末期まで続く。
海から陸へと物流が変わるモータリゼーションの時代となったのは戦後のわずか半世紀余り。それよりずっと前に、平家伝説が奄美に残されたということは、それが島人の願望であったとしても、歴史ロマンとしてはおもしろい。海に囲まれた、山深い島国であることが、海の向こうの極楽浄土信仰(ニライカナイ)をはじめさまざまな歴史伝説を生みだし、世界に誇れる多彩な食文化も生みだしたのだ。
荒々しい九十九里浜の沖にニライカナイの世界を夢想するのはむずかしいが、明るい陽光と色彩あふれる南国の島ではサンゴ礁の青い海のむこうにその世界があっても不思議ではないと、夢想できるような気がした。 (村長 平野)

写真提供:友重隆雄さん(一部は平野)