奄美・夢の島を想う(3)

奄美に田んぼが見られない訳は
 この時期なら青田の稲穂が風にそよいでいるはずなのに、奄美大島ではそれがまったく見られなかった。

亜熱帯の原生林が頭上にせまり、青い海が右に見えたり左に見えたり、現地の人の車で案内されて、どこをどう走っているのかわからない。「昔は米もつくっていたんですがね。いまはほんの少しだけ」と、ドライバーの健ちゃんは言った。田んぼのほとんどはサトウキビ畑に変わってしまったからだという。いや、変えられたといったほうが正しいようだ。その昔とは、いつの頃なのか。
以下は、朝日新聞の記者が書いた『奄美、もっと知りたい』(神谷祐司)を参考に要点抜粋。
奄美の島々は、15世紀半ばに琉球国(沖縄)に征服されていたが、1609年、薩摩藩が琉球・奄美を攻め込んで支配下に置いた。ちなみにこの年、幕府(二代目将軍・秀忠)は、長崎・平戸でオランダとの貿易を始めている。幕府は薩摩のこの動きをどう見ていたのか?
琉球では17世紀半ばには砂糖の専売制が実施されていたが、その旨味に目をつけた薩摩藩は奄美諸島で黒糖の生産量を増やしていく。稲作の田んぼをサトウキビ畑に変えただけでなく、島民による砂糖売買を禁じて薩摩藩の独占物としたのである。
文政期(1818~1839)の薩摩藩は、500万両の借金で首が回らず、江戸・大阪・京都の金貸しからも見放されていた。財政再建のために返済を250年償還という事実上の「踏み倒し」までやった上に、砂糖の専売制を強化した。
「砂糖を指先でなめても鞭打たれた」という話も残るほど島民は圧政に苦しみ、奄美が「薩摩」に同化することも許さなかった。
「貨幣を禁止、往来も禁止、衣服など身なりは琉球風のものを強制し、姓を許された島の支配層も一字姓に限定した。幸、文、龍、里、芝、時など。中略。
年貢が払えず、借財が重なって富豪に身売りした者も多く出た。これが『家人(ヤンチュ)』と呼ばれる奄美独特の階層である。一種の債務奴隷と考えられている」
薩摩藩は、奄美諸島からの莫大な利益をもって経済的原動力として、倒幕と明治維新をリードしたわけである。
奄美大島に田んぼの風景が見られないのは、そういうことだったのだ・・・。

鹿児島のどこですか?

 奄美ツアーの最終日(7月8日)の夜、ホテルで「第20回羅漢まつり」が開かれた。これは幻一さんの応援団「奄美まぼろし会」の主催によるもので、奄美ツアーの目的の一つはこれにあった。ぼくは何も知らずに参加していたわけだが、要するに、幻さんを囲む親睦交流会である。
奄美市長や市議会議長も参加してスピーチをしたなかで、深く印象に残ったのが朝山毅市長の挨拶だった。およそ、こんな話である。
ぼくは若いころ自己紹介するときに、九州の出身です言うと、「そうか、九州男児か。酒が強いね、ところで九州のどこだね」と必ず聞かれる。鹿児島県ですと言うと、「そうか、西郷さんの薩摩隼人か。で、鹿児島のどこかね」と言うので、奄美大島ですと応えると、「奄美か・・・」となってそれ以降、対話がすすまない。
このあと朝山市長は、来年(2013年)には本土返還60周年(1953年12月25日返還)を迎えるという話をされていたが、実は恥ずかしながら、そんなこともぼくは無知であった。今年で本土返還40周年を迎えた沖縄については、米軍基地の問題などでそれなりの関心はある。しかし奄美諸島が戦後の一時期米軍の支配下にあったとは・・・、教科書で教えてもらった記憶はないし、昨今のマスコミ報道にもほとんど出ていないのではないか。薩摩藩が、幕府からの厳しい監視の目をくぐることができたのも、本土は昔から奄美に無関心であったという、朝山市長の話に象徴的に現れているのではないか。

「西郷さんは尊敬されていませんよ」

ちょうど朝山市長のスピーチが終わったとき、
「ぼくの母が生まれ育ったのは鹿児島市内です」
同じテーブルに座った右の人に、そう言って名刺を渡して少し話をした。
話の流れから、西郷隆盛のことが話題になり、その人は言った。
「島の人らは西郷さんを尊敬していませんよ。奄美は薩摩藩にはずいぶん苦しめられましたからね。その親玉が西郷さん」
だから、奄美諸島が鹿児島県であることにも複雑な思いがある、というのである。
薩摩藩は、罪人の流罪地として奄美の島々を選び、西郷も2度にわたり、奄美や徳之島、沖永良部島に流されている。奄美では「愛加那」という現地妻を娶り、菊次郎(後に京都市長)と菊草という一男一女をもうけているが、明治になってから西郷は子ども2人を愛加那の手から奪いとった(と島民は見る)。西郷は流罪中に奄美の窮状を見かねて「砂糖買い上げ」について薩摩藩に上申書を出しているが、その一方で、「明治になって鹿児島県が砂糖専売制度の実質的継続を図った際に、西郷はこれに手を貸した」という歴史的事実もある。奄美には、西郷上陸(流罪地)の顕彰記念碑もあるけれど、「薩摩憎し=鹿児島憎し=西郷憎し」という島民感情はいまも活きているのだ。
それに引き換え、名越(なごや)左源太という人物は、「同じ流罪人でも西郷とは比較にならない」ほど温かい視線をもっていた、と『奄美、もっと知りたい』の著者は書いている。
その名越左源太は、島の風物や生活を記録した『南島雑話』を残しており、当時の島の食物についてこう記す。
「此島米少なければ、甘藷を多く飢て第一の常食とす。甘藷不作にして実入り悪しければ島中一統の事とて、其時は蘇鉄を上食として、其外、木の実、草の葉、海苔類を食う」
甘藷とはサツマイモのことだが、固い蘇鉄(ソテツ)の実は毒抜きをしないと食べられない。奄美では主にナリ・ミソ(ナリとは実の意)と呼ばれる味噌に加工するそうだが、その手間暇はたいへんなものだ。
田んぼがサトウキビ畑に変えられ、「米少なければ」こそ生まれた食文化なのだろう。


以下は、「知恵袋」の回答より
蘇鉄の赤い実が食べられると聞いたのですが、どのようにして食べるのでしょうか?

「蘇鉄の実をそのまま食べたり簡単にあぶって食べると食中毒を起こす。鹿児島県の奄美大島では今でも食用にしているが、主にナリ・ミソ(ナリとは実の意)と呼ばれる味噌に加工している。伝統的な加工法は赤い実を二つに割って日に干し、それを甕(かめ)に入れて水を加えて浸し、しばらくたってから水を掬い出して、空気中から侵入した微生物で数日間発酵させる。この発酵で蘇鉄中の有毒物質は微生物の作用で酸化を受け、蟻酸(ぎさん)となり、さらにそれが分解されて最終的には二酸化炭素と水になり、毒が抜ける。それをよく水で洗い、再び日に干して乾燥させてから臼で搗(つ)いて粉末状にする。これを蒸してから蓆(むしろ)に広げて二、三日放置しておくと、これに麹菌が付いて「蘇鉄麹」ができる。この麹に煮た米および塩を加え、甕に蓄えておくと、今度はそこに耐塩性の乳酸菌や酵母が湧きついて発酵し、特有な香味を持った「蘇鉄味噌」ができ上がる。
赤い実を二つに割って日に干しから、甕(かめ)に入れて水を加えて浸し、しばらくたってから水を掬い出して微生物で数日間発酵させる。この発酵で蘇鉄中の有毒物質は微生物の作用で酸化を受け、蟻酸(ぎさん)となり、さらにそれが分解されて最終的には二酸化炭素と水になり、毒が抜ける。それをよく水で洗い、再び日に干して乾燥させてから臼で搗(つ)いて粉末状にする。これを蒸してから蓆(むしろ)に広げて二、三日放置しておくと、これに麹菌が付いて「蘇鉄麹」ができる。この麹に煮た米および塩を加え、甕に蓄えておくと、今度はそこに耐塩性の乳酸菌や酵母が湧きついて発酵し、特有な香味を持った「蘇鉄味噌」ができ上がる。」

 ※写真提供:友重隆雄さん

幻一さんの「こころの森美術館」建設に向けて
http://www.cocoro-no-mori.net/