『ヒマラヤ山麓万枚田調査ノート』 5    辻井 博

まとめ「万枚田考」
 ネパールの万枚田やアジアの棚田について考えてみたい。今回のヒマラヤ山麓調査で、私はネパールの万枚田群の美しさと大きさ、そして多さに感動した。

 私は伝統的万枚田地帯であるバラビセと、トレッキングが盛んなアンナプルナ保護地域の万枚田を、今回見ることができた。トレッキングなどによる物資や労働需要の無いバラビセでは、物資は人力で、急斜面の万枚田に張り付く小集落と谷底の自動車道を結ぶ1-5kmの石板製階段道路を通って運ばれる。その輸送制約と多分ネパールの農民が高い所に住む好みを持っているから、バラビセの小集落の農家は、自給的・定住的生活をすることになる。私は、広大な急斜面の万枚田に張り付く小集落を上で自給・定住的な「天空の存在」と呼んだ。この「天空の存在」性はアンナプルナ保護地域では非常に希薄になっていた。それは、多数のトレッカーの来訪による山の上での多量の物資需要が、ロバによる物資輸送を一般化させ、昔はより「天空の存在」であったであろう万枚田の急斜面に張り付いた小集落のネパール人農家も、ロバが運ぶ多量の物資に依存するようになったためではないかと思う。また、バラビセの万枚田とアンナプルナ保護地域の万枚田の大きな違いは、アンナプルナ保護地域の方が耕作放棄棚田の割合が多くの場所で50%程度と非常に大きいことである。これも、アンナプルナ保護地域でのトレッキングや登山による観光需要の急増が、万枚田の小集落の農家への観光労働需要を増やし、コメやシコクビエ生産などの万枚田での伝統的・自給的農業労働をする人が無くなってきたからではないかと考えられる。
トレッキングや登山の観光需要が、上で述べたように、アンナプルナ保護地域での万枚田の非常に大きい割合の耕作放棄と、空き家・廃屋農家の増加を引き起こしているのではないかと考えられる。トレッキングは万枚田をシンボルとするアンナプルナ保護地域の伝統的農業・農村・文化や生態・環境とヒマラヤの霊峰を楽しむことである。しかし、トレッキングや登山人口の増加自体が万枚田や伝統的農村・農業・文化を破壊している可能性が高いのである。ネパール政府や日本政府ないし民間団体により、この破壊を最小限にするような観光のやり方が構想され、実行されねばならないと考える。

アジアの棚田の最も重要な意義
私は水田は全て棚田であると思う。それは、畦で囲まれ湛水して稲作が行われる水田の水平の田面は次の水田の田面と、一般に必ず格差があるからである。世界合計のコメ生産の内約90%はアジアでなされるから、世界の水田の約90%もアジアにある。人類にとって最も重要な穀物はコメと小麦とトウモロコシだが、コメのみアジアに生産と消費と農地が90%も集中している。アジアでコメを主食とする米食人口は、辻井の推計によれば27億人である。白米の世界生産量は2010年に4.7億トンと考えられるから、米食人口一人当たり消費量は157kgとなる。これはアジアで大人一人をほぼ養える量である。アジア各国は、コメの世界貿易市場が、小麦とトウモロコシに比べ非常に薄く不安定で、価格変動が非常に激しいから、コメ自給政策を取ってきた。だからアジアの万枚田の最も重要な意義は、各国のコメ自給によりアジア合計27億人になる米食国民の食料安全保障を確保していることである。食料安全保障とは、アジアの各米食国民が必要とする量のコメが、何時でも、どこでも、誰に対しても供給され、そのコメが食品として安全であることである。この役割は、コメを主食とする27億人のアジアの米食人口にとって非常に重要である。この他に、万枚田はアジア人に景観・原風景、水源涵養、洪水防御、環境保全、国土保全、農村文化・社会の保全、所得分配の平等化などの便益を与えている。食料安全保障とこれら便益は、市場を通らず米食民が享受する便益であるから外部経済効果ないし多面的機能とよばれる。この外部経済効果のほかに、コメ付加価値生産額は、市場を介して国民に便益を与えているから、内部経済効果と呼ばれる。

日本農業の総便益は、毎年17.35兆円
この万枚田の米食人口に対する便益はどれほどの大きさであろうか。日本農業生産に対しては若干の推計がある。日本学術会議が2001年に日本農業の外部効果を、食料安全保障の部分を除いて8.3兆円と推計した。辻井は2011年に、日本農業生産の日本人の食料安全保障への便益を、経済的心理的期待値として、代替法やCVM法により6.05兆円と推計した。日本農業の内部経済効果である付加価値生産額は約3兆円である。これらを合計して、日本農業の総便益は、毎年17.35兆円となる。実に農業の付加価値生産額の6倍近くになる。この便益額は農業生産に対するもので、コメ生産に対する額は、コメの日本農業と国民に対する重要性を考慮すると、この半分の9兆円弱くらいになり、非常に大きい額である。アジアの万枚田の総便益も非常に大きい額になろう。この総便益の大きさに応じて、アジアの万枚田は各国の米食民によって守られねばならない。

日本の棚田は、水田面積合計の約半分
上で水田は全て棚田であるといった。しかしそれは棚田の広義の定義である。誰にでも受け入れられる棚田の定義は、やはり見た目で棚のようになっている水田であろう。ヒマラヤの万枚田や輪島の千枚田は、少し傾斜が急すぎるかもしれないが、その定義に当てはまる。農水省は狭い棚田の定義をしている。それは1/20以上の傾斜地にある水田で、22万haとされる。これは急傾斜地の水田である。私は、農業地域類型の中の中山間地域にある水田を棚田とすれば良いのではと考えている。これら地域は林野率が50%以上で、中間地域では耕地が傾斜地が多い市町村とされ、山間地域は耕地率が10%未満の市町村とされる。だから、中山間地域にある水田は、棚状になっており、棚田と呼べると思う。中山間地域にどれだけの水田があるかは、私が調べた限り公表された数字はなかった。農水省は、平成17年の中山間地域の日本農業に占める重要性を、耕地は43%、農家人口41%、農業集落は50%、農業販売額は38%、コメ産出額は39%とする。これらと、棚田の単収が平地より20%ほど低いことを考慮して、私は中山間地域の水田面積は日本合計の約半分と考える。その面積は、約125万haにもなる。日本では、中山間地域で耕作放棄率が1985年の3%から2005年の13%へと急速に進んでいる。

万枚田の膨大な外部経済効果を留意すべき
ネパールでも、アンナプルナ保護地域の万枚田と万枚畑で、耕作放棄が急速進んでいるらしいことを示した。同じことは文献によればフィリピンのイフガオの万枚田で起こっており、辻井の調査でインドネシアのバリ島の棚田でも、中部ジャワの南部海岸の棚畑でも起こっていた。そして、アジアの万枚田や万枚畑の耕作放棄は、急速な市場化・資本主義経済の浸透の結果起こっていると考えられる。今、TPPが日本で論争になっている。TPP参加は輸入関税をゼロにする国際協定で、市場経済の徹底的浸透だから、日本やアジア各国がTPPに参加すれば、国内米価は国際米価に下がり、生産費がかなり高く、米価が高くなる万枚田の稲作は、崩壊せざるを得ない。日本でも、少なくとも、水田の半分を占める中山間の棚田も耕作放棄される。日本農業にとって重要な中山間農業が消滅する。日本は過去45年間コメのみで自給を保ち、食料安全保障を確保してきた。この食料安全保障も、非常に不安定な世界コメ貿易市場の下崩壊する。万枚田・棚田は、上で述べたように、アジア各国の米食国民へ、巨額で重要な、食料安全保障やその他外部経済効果を与えている。この万枚田・棚田の膨大な外部経済効果に、日本やアジアの米食国民は十分に留意して、いかなるコメ政策を取るか、TPPに参加するかどうかを決めるべきではないか。

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