「循環型の社会をめざして」

                                         市島町有機農業研究会    橋本 慎司
被爆2世として

 3月11日以降福島の事を考えない日はない。毎日、新聞の記事が気になり、一体今後どうなっていくのか不安な日々である。

先週も福島産のお米から高濃度の放射能が検出された。福島での原発事故が起こった時は日本有機農業研究会の大会で福井にいた。原発の多いためか会場の越前駅前で「炉心漏溶」という見出しの号外がでた。チェルノブイリの事を思い出し、すぐ家族に電話してヨード製剤を準備するように伝えたのを覚えている。ところが不安でいらいらしているのは自分だけで、多くの人は平然としていた。自分が何故、こんなに原発事故のことが気になるのか。それは多分、自分が被爆2世であるからだと思う。

 

15歳で被爆した父
 私の父は1945年8月6日、広島に原爆が投下された日、爆心地に近い、広島駅にいた。当時は若い学生が動員されており、15歳だった父は食糧生産にかり出されていた。作業前に朝礼が行われている時、原爆が投下された。爆風とともに、父は大きな閃光を見て、あたりの建物は吹き飛ばされた。父とともにいた学生、先生は駅の建物があったため無事であったが、前列の学生は真黒に焼け、父も腕に火傷をおった。近くの川に友達と逃げたが友達は痛い、痛いと泣いて、その場を離れる様子がないので、とにかく逃げようと思い、郊外にある実家(矢野町)に向かって歩き始めた。しばらく歩いていると知り合いのお兄さんに出会い、自転車の乗せてもらって無事家についたそうだ。それから数日後から原爆症と思われる下痢が続いた。腕には紫斑もでた。うわさでは紫斑がでると1週間で死ぬと言われていたが、生き残った。紫斑を見た時、若い父はどんなに不安だっただろうか。
現在、父は80歳を超えた。当時、共に広島駅にいた同級生の多くはガンになった。父も前立前ガンを患っているが、免疫性を作る漢方薬を飲みながら生きている。家族にしたら心配が絶えない。原爆を受けて以降、ちょっとしたことですぐ風邪もひくようになったそうだ。放射性物質を人体に取り込むと免疫性がなくなり、外からのウイルスの侵入に弱くなるそうだ。風邪をひきやすい、倦怠感など多くの人が被爆後、症状を訴えた。原爆の後遺症に苦しむ被爆者は仕事もしないでぶらぶらするので「原爆ぶらぶら病」と呼ばれた。原爆が投下された後、医師として原爆症患者に対応してこられた肥田舜太郎医師は放射能の影響は低線量であっても10年、20年後に出てくると言われている。一般的には放射能の影響はガンや白血病という形で表れると言われているが、それ以外にも心臓病、脳溢血、倦怠感、免疫低下なども症状としてあらわれるとおしゃっていた。

祖父のメッセージ
 母方の祖父は原爆が投下された2日後に広島に入った。いわゆる入市被爆者である。祖父は当時、31歳、原爆で破壊された市内の実家の様子を見るため、原爆投下の翌日、避難していた五日市から市内に入っただけだ。帰宅後からしばらく、歯茎から血が出て止まらなかったそうで、これも下痢と同じで典型的な被爆症である。チェルノブイリでは脳梗塞、心筋梗塞の死亡率が増加したどうだが、祖父は47歳ころから心臓が悪くなり、50歳の時に心筋梗塞で亡くなった。
当時、私は3歳だった。初孫で大変大切にされていて、鮮明に祖父の記憶がある。祖父の葬式の日は偶然にも私の誕生日であった。祖父は当時めずらしかったレコーダーを孫の私の誕生日に与えようと楽しみにしながらその夜、亡くなった。葬式の日、誕生日会に準備されたケーキを従妹と食べた、以来、誕生日が来るたびに祖父のことを思い出す。あたかも広島の惨状を私に伝えるかのごとく。死んだあとに10数冊のアルバムが見つかった。「慎司へ」と書かれたアルバムには家具会社の社長として短い人生を送った祖父のメッセージが残っており、私の今の生き方に大きな影響をあたえている。

原爆手帳
  祖母も原爆投下後、私の母と叔母を連れて、被曝地に入っていて、祖母、母、叔母ともに原爆手帳をもっている。祖母は祖父の死後、しばらくして倦怠感と呼吸困難に襲われ入院した。病気の原因は不明で、祖父の死後、精神的な要因で病に伏したと思われたが、さまざまな被爆者の原因不明の後遺症を知るにつれ、もしかしたら、祖母にも放射能の影響があったのではと考えることもある。叔母は去年、肝臓がんで亡くなった。母は慢性肝炎である。広島市内で被爆した叔父も私の従妹が中学生の時、若くして肺がんで亡くなっている。放射能の影響は見えないのでどこまでどうかと言えないが、私の周辺で原爆手帳を持っている人々は皆、放射能の影響からくる病に冒されてきているような気がする。果たしてこれは偶然なのだろうか。

放射能は見えない火事だ
 今回の福島の事故では広島型原爆の168個分が拡散したそうだ。原爆?個分の重みを知る私からすると想像を絶する数値である。ところが世間では「安全」
「大丈夫」という言葉が流れ、あたかも放射能の影響は何もないかの如く言われている。「風評被害」は本当に「風評被害」なのか被爆2世の私には信じられない。広島の168倍の被害が起き、福島の人々は私の168倍不安や悲しみを感じるのか。綺麗事を言っている場合ではない。多分、福島の事故は日本の歴史史上最悪の環境破壊事故である。これから福島に残る人々の身を思えば、我々は皆そのことを認識する必要がある。
放射能は見えない火事だ。火事になったら皆、逃げるだろう。家を捨ててでも逃げるだろう。村を捨てて逃げるだろう。放射能は見えない火事だ、それは見えないうちに人間の体内に入り、見えないうちに人間を焼き尽くしボロボロにするのだ。
特に農家は野外での作業が中心なので通常よりも多く被爆する可能性があり、非常に危険だ。年間?ミリシーベルトを超える地域では農作業はすべきではない。原発事故の答えは一つだけ、逃げることだ。政府が避難に協力できないのなら、民間が協力するしかない。少なくとも国際基準の年間?ミリシーベルトを越える地域の住民は避難せねばならない。?ミリシーベルト以下でも不安なら移住しなければならない。除染の仕事はそこに残っている住民がする仕事ではない。大変、危険だ。ましては福島県外から汚染地域に除染で入ってくるボランティアは注意が必要だ。特に将来子供を産む女性は汚染地帯に近づいてはならない。
広島では被爆していない大勢のボランティアが被爆者を救済するため、郊外から広島市内に入り、食糧を提供し、看病し、自らも被爆者になった、これは高齢者も同様である。放射能は善意の人々を一生苦しめる、悪魔の火だ。除染の仕事は東京電力と政府の責任でやるべきだ。ゴミは出したものがかたづけるべきだ。

これほど破壊された環境の中で
 震災の後、URGENCIを通じ、フランスから申し出あった。フランス財団が汚染地域の農家の移住の費用を負担してくれるそうだ。窓口はフランスで日本の提携運動を紹介し、自らもブルターニュ地域で生産者と消費者の組織作りを行ったレンヌ大学の雨宮先生がしてくださっている。先生は現在、仕事の都合でフランス人の夫とともに京都に住んでおられ、先日、兵有研(兵庫県有機農業研究会)の本野理事長とともに話を聞きに行った。長野県に、福島の有機農業生産者、丹野さん一家が財団の援助で震災以降すばやく移住し、すでに畑も始め出荷が始まっている。有名な農家なので、技術を学ぼうと大勢の長野県の若者が丹野さんのもとに集まっているらしく、あとに続く福島からの移住農家希望者もいるらしい。
米国の経済統計学者のジェイ・マーケティング・グルード氏は国内の乳児死亡率、低体重児出生率、乳がん患者率が水爆実験開始後から上昇していることを発見した。
現在でも米国の乳がんの発生の70%は原発や原子炉を持つ研究施設、核物質の保有する施設周辺160キロ圏内に集中している。原子力施設の影響で事故が無くても、年間4000人が施設から微量に放出される放射性物質の影響により、乳がんによって死亡しているという計算をうちだしている。 
不自然に生み出される放射性物質、アスベスト、住宅構造に含まれる発がん性物質、工場から排出される化学物質、農業現場で使用される農薬、化学肥料、除草剤、食品の添加物、我々の周りには危険物質があふれている。医療の発達で人間の寿命は延びたが、医療費は上がる一方、現代人はなぜこんなに不健康なのか。自分や家族さえ健康であればと思い、健康食品や有機農産物を食する消費者はいるが、これほど破壊された環境の中で、安全な食品を食べるだけで本当に健康を維持やすることができるのだろうか。我々は自らの健康を守るために健康で持続可能な循環社会を協力し合って再建する必要がある。

有機農業の原点を忘れてはならない
 日本人は世界で一番初めに原爆による放射能の影響を受け、被爆者を出しながら、また福島で原発事故を起こしてしまった。漁師がビキニ沖の水爆実験により被曝した事件を数えれば3回目である。原発事故は米国でのスリーマイル島原発事故、旧ソ連邦でのチェルノブイリ原発事故、日本でも数々の放射能漏れ事故はあった。にもかかわらず、また懲りずに今回の事故。人間の技術が起こした環境破壊を思えば、熊本の水俣病、足尾銅山の鉱毒事件、新潟でのイタイイタイ病・・・何回ひどい目に遭っても懲りない民族である。
広島での体験が何故福島に生かせなかったのか。繰り返し、繰り返し、私の中で問われている。最近、農作業中でもそのことばかりを考えてしまう。これは日本人の民族的特性なのか。広島では原爆の体験は形骸化している。子供の頃は毎日、夕方になるとあの暗い、「原爆の歌」が流れ、被曝の体験を残そうとしていたが、いつのまにか悲惨な被爆者の体験は忘れ去られ、明るい「平和コンサート」や「平和のお祭り」に代わってしまっていた。
有機農業の世界も農薬の害にあった農民と農薬のかかった農産物に不安をいだき、それに警鐘をならす研究者が協力する社会運動から「おしゃれなオーガニック」、「グルメなオーガニック」活動に変貌しつつある。これはまさにヒロシマがたどった道とまったく同じだ。「おしゃれも」も「グルメ」も有機農産物を広げるためには必要ではあるが、我々は何故、有機農業は始まったのか、その原点を忘れてはならない。

兵庫県有機農業研究会  http://hyoyuken.org/