平均60歳の若者、初雪の連山を縦走す

7人のサムライ、平均年齢60歳の若者たちは、猛吹雪の山中へ決死の覚悟で分け入った!!

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というのは冗談ですが、初雪がちらつく12月17日の朝、7人の里山くらぶメンバーが丹波の山に入ったのはほんとうです。

この日は夕方にくらぶの忘年会。メンバーが集まりやすいこの日を選んで、山々の尾根を8時間かけて縦走することになりました。丹波市春日町のある集落が、高齢化のため山の管理ができないので、その山をまるごと管理してほしいと、NPO丹波里山くらぶに相談があったからです。その山の下見調査をかねた登山&トレッキングとなったわけです。

登山というよりトレッキング気分
丹波の山々は高くても600メートルほどだが延々と連なる山脈になっている。山が連なっているから、 s-DSC_t0022.jpg 鹿も猪もハンターから逃れることができるわけだ。戦国時代は、戦に敗れた兵たちもこの山に身を隠したのだろう。
管理を受託する山だけを登ることもできるが、この際、連山の尾根を縦走してみようということになった。朝8時に集合、コーヒーを飲んでからメンバーの車で15分ほどの水分かれ公園の登山口まで送ってもらった。明け方から降り始めた初雪はまだ止みそうもなかったが、青空がのぞいていたので挙行した。

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 水分かれ公園(丹波市柏原町)はその名の通り、日本一低い中央分水界(分水嶺)があるところ。海抜100メートルほどの地点から、南は加古川から太平洋に、北は由良川から日本海にそそいでいる。
登山口で記念撮影して9時前に出発。なにしろ平均年齢60歳の若者であるから、歩みはのんびり。このペースなら楽勝だなと思いながら最後尾をゆく。山に入ると雪は積もっていないが、日陰の草木や北側斜面には新雪が残っている。
標高1500600メートルの連山は、アップダウンの連続。だが、 s-DSC_t0026.jpg 急傾斜があってもその距離は短く10分もあれば登れる。全体としては尾根を歩く距離のほうが長いので、登山というよりトレッキング気分だ。それでも1時間も歩かないうちに、息を上げているメンバーもいたのでたびたび休憩する。「ここは見晴らしがいい」と言ってはまた一服。

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 丹波は、連山の谷ごとの盆地に小さな集落が形成されている。高所から見るとそれがよくわかるし、なぜ丹波の農産物が美味しくて、しかも同じ地域でも微妙な差があるのかということが見えてくる。南向き・北向き、土壌、水量、日照時間、霧の深さなど、作物を育てる条件が微妙に影響するのだろう。

 

語り継がれる歴史リアリティ
 毎日眺めている城山(黒井城)があんなに低いのかと思う。城山の後に見えるのが、丹波では一番 s-DSC_t0047.jpg 高い五台山(標高650メートル)。そこは丹波市の市島町である。私はその麓の湧水を、毎月2回汲みにいっている。ある日、地元のおじいさんから言われた。
「春日町の水がまずいのは、バチが当たったからや」と。
なんのことか、おわかりだろうか。
そのおじいさんは、いまから400数十年昔のことを言っているのだ。
明智光秀の丹波攻めは、一度目は黒井城の城主・荻野悪右衛門(直正)と篠山の波多野氏との連合軍に敗れたが、数年後の二度目は攻略に成功した。そのとき、ある部落のおばあさんが城に引きこむ水源の在り処を明智軍に教えてしまったために黒井城が陥落した、という逸話が伝えられている。その結果、春日町の水がまずくなった、つまりバチが当たったのだと、おじいさんは言うわけである。
そんな歴史的因果関係が自然の水質にも及ぶこと、そして400年以上前のことを、まるで数年前の出来ごとのように言ったことに、私はおどろいたのだった。
城山を眺めながら、このエピソードを話すと、あるメンバーがこともなげに言った。
「戦後まもない頃まで、その集落の女性はなかなかヨメさんの貰い手がなくてな、困りよったんやで」
「エーッ、ウソー!・・・信じられん!」と、私は思わず大声を上げていた。なんともはや! 良かれ悪しかれ、これが語り継がれる田舎(地方)の歴史リアリティというものなのだ。
その城山から東方向に我が家のある野上野の里山が見えている。ちなみに我が家は海抜130メートルほどだが、集落の一番下の海抜より40メートルほど高いので、雪積量は多い時で5センチ以上の差がある。

気持のいい腐葉土の尾根道

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 5山を登ったあたりで弁当をたべる。標高591メートル。リックサックに入れていた弁当のご飯もペットボトルのお茶も冷え切っていて、熱いお茶がほしかった。じっと坐っていると汗ばんだ身体が冷えてきたので、食べ終わると早々に歩き出した。
この調子で歩いたら5時間もすれば下山かなと思っていたが、そうではなかった。連山の奥行きはどこまでも深く長い。麓から山を見上げていると、丹波の山々は杉・ヒノキの人工林が目立つが、中に入ると植生も豊かな落葉樹の雑木林が多い。戦後間もなくのころまでは、「おじいさんは柴刈りに」山に入った。この雑木林は豊かな燃料の宝庫だったが、石炭・石油時代とともに雑木 s-DSC_t0051.jpg は顧みられなくなり、金になる杉・ヒノキノが全国一斉に植えられていった。その人工林もやがて輸入材に押されて、金にならない山の手入れがされなくなっていった。
落葉樹が生い茂る尾根道には落ち葉がたっぷりと積り、厚い層の腐葉土になってふかふかしている。新緑萌える春はまた素晴らしいだろうなと思う。
木々は自らの葉を落とし、それを虫や微生物たちが食べて土に返す。その自然循環を延々と続けている。畑の表土が10センチ形成されるのに100年はかかると、ある篤農家は言っていた。だとすると、この山の土が形成されるまでに数十万年、いや何億年とかかるだろうか。人間の手では、海抜100メートルの山さえ造れないのだ。

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 この丹波は太古の昔は湖だったという。春日町では泥炭が取れると聞いていたが、黒井という地名はそこに由来するようだし、この山のなかでも「亜炭層」があった。春日町の水が美味しくないのはあきらかに地層に原因があるはずだ。おいしい山の水はもっぱら農業用水に使われ、水道水は地下水を汲み上げている。地層の鉄分や塩分のせいか、とてもまずい。そこでいま丹波市では大規模な水道事業を計画中で、やがて春日町にも他地域の美味しい水が供給されるようである。水源の在り処を明智軍に教えた名もなきおばあさんは、その日が来るまで浮かばれないのかもしれない。
尾根道を黙々と歩きながら、太古の丹波を想ったり・・・空っぽになったり・・・、いま読んでいる『本能寺の変 四二七年の真実』に刺激され、荻野悪右衛門の小説をいつ書ける日が来るのだろうかと焦ったり・・・・。(明智光秀の子孫が書いたこの本では、光秀は家康や細川藤孝と謀反同盟をむすんでいたという。その線も大いにありと思えるが、私は秀吉ラインがどうにも臭い)。

久々に丹波まるごと堪能
 管理を受託しようという山は、すごい急傾斜の谷があり、雑木が生い茂る。杉やヒノキは麓に少しあ s-DSC_t0073.jpg るらしいが、たしかにこれでは集落のお荷物なのだろうと、メンバーの全員が納得する。この山の管理を請け負って、はたして「事業」らしいことはできるのだろうか。マツタケなどは出そうもない。薪をつくるといったところで、搬出するのが大変だ。薪を売ったところで知れている。しかし、里山くらぶとしては、何とか知恵をしぼって「企業の森」のようなことを出来ないものかと考えている。 
そろそろ下山しようというころになって、山の道標に迷い、間違った方向に行きかけてもどったり、下山する谷筋の道も間違えて、急傾斜のブッシュのなかをすべり降りながら突き進むことになった。
道案内があるとはいえ、違う方向の谷に下りてしまうと大変なことになる。私は丹波に移住して間もないころ、 s-DSC_t0071.jpg 自分の家の裏山で方向を見失い恐ろしい経験をしたことがある。暮れかけた晩秋の山であやうく遭難!その恐怖のトラウマがあるから、一人で知らない山に入るのはいまもできない。
急傾斜のブッシュは10分以上続いていたが、この日は山の先達がいたから不安はない。やがて立派な杉木立が見えてきて、そこからまた20分ほど下ると、釣り堀になっている大きな溜池に出た。時刻は午後4時、7時間も山を歩いたことになる。
s-DSC_t0084.jpgの近くの国領温泉に浸り、人心地つくと、どっと疲労感が押し寄せてきたが、まさに空っぽの充足感であった。
そして6時から、農家民宿「花ひろ」でぼたん鍋と丹波の名酒の忘年会。丹波に居ながら、久々に丹波まるごと堪能した一日だった。   (村長 平野)