桜散らす長雨をうらみつつ

桜が咲き始めた頃から散るまで、雨がしつこく降り続けている。はやくも梅雨時期になったかと錯覚するほどに。

4月は花冷えの雨がよく降る季節ではあるけれど、2月~3月も雨が多かったし、春先にこんなに降り続けることは記憶にない。気温も上がらないのでこの数日は薪ストーブを炊いた。
天気予報ではこの1週間も週の半分は雨模様。畑作業はできないし、寒いし、薪は底をつきはじめているし、うらめしい雨だこと。

土曜日(11日)は毎年恒例の篠山春日能に行った。今年で通算10回目だろうか。桜咲く時期の通過儀式になっている。
前夜の雨は上がっていたが、朝方は雨雲が垂れこめていたので「室内での公演ですか」と電話で問い合わせたところ、例年どおり屋外の能舞台でするという。午後からうっすらと青空がのぞいていたが寒さはきびしい。風がなかったのがまだしもだが、寝袋も持参してカミさんと肩を並べて鑑賞。
演目は采女、仏師、そして三番目には「須磨源氏」。光源氏ゆかりの若木の桜の話がながながと続いたあと、後シテの光源氏の霊が兜率天から天下り舞楽を舞う。舞いといってもほとんど動作らしい動きのないところに能の舞いの特徴があり、美学がある。よくぞこういう凄味さえ感じさせる舞台芸術を完成させたものだと毎年思い、また世界に類例をみない美学に昇華させた点に、日本人としての誇らしさをも覚えるのだった。今回はまた新たな発見もあった。地謡や囃子方の小鼓の演出(音響)効果というものに初めて感銘を受けたのだ。映画でいえば音響効果ということになるが、小鼓の高い響きに合わせて囃子方が発する単調だが気迫のこもった声--唸る、突き刺す、断ち切るような発声が臨場感を高めていくなかで、静かに舞う光源氏の幻想がなんとも絶妙なコントラストをなしていた。これまでシテやワキの演者ばかりに目が行っていたけれど、これがなければ能舞台は成立しないのだ。

さいわい昨日(日曜日)も一日曇り空だったので、午前中に小屋の屋根のトタン葺きを終わらせ、畑や農道、土手の草刈に励み、夕暮れ前に急いで水汲みに走った。へとへとになるが、屋外作業をする休日はいつものことだ。
今年になって初めての草刈は、2~3時間かけて全体の半分もおわらなかった。残りの半分を終わらせたころには、先に刈った半分の草が伸びている。
この繰り返しの草刈の総面積はいったいどれくらいになるだろうか、とつらつら思うに、甲子園球場の5倍くらいだろうか、などと計算したりする。土手の傾斜での草刈はとくにシンドイから総面積だけで労力は計れないのだが。
とにかく、開幕5連勝のあとでずっこけた阪神タイガースの戦いも気にしながら、これから秋まで草との長い戦いが続くのだ。ジャンジャン。  村長 平野