軒下の干し柿とシンクロする 今日この頃

朝日をうけて光る干し柿を二階の窓から眺める。この時期、干し大根とともに我が家の風物詩になっている。

家の庭にある渋柿はピンポン玉ほどで西條柿の4~5分の1ほどしかないけれど干すと程よい甘味になる。梯子にのぼって手が届くだけの実を250個ほど採ったが、カミさんは皮むきがたいへんな作業だ。夜なべして紐にむすび軒下に吊った数日後、近所の人が「うちの柿もなんぼでも採って」と言うので、我が家の柿より2倍は大きいのをさらに70個ほど吊るし、300個以上! 何とも豊かな気持ちになる。
柿が日に日に萎んでいくのを、もうそろそろかと試食しているうちに年末を迎え、半分近くに減っているが、今年は正月明けてもだいぶ残りそうだ。

11月11日には『食と農と里山VOL.1』の出版パーティが終わりホッと一息ついた。
そして先週末、畑作業のあと一休みして薪割りをしようかというとき、携帯に真砂秀朗さんからの着信記録と留守電。なぜか変な予感がして電話すると、来週日曜日(23日)のコンサートを中止したいという話だった。青天の霹靂!
1週間前ほど前から耳鳴りがひどくて夜も眠れない状態で、病院の診断では原因は不明だが完治に3か月はかかるだろうと言われたという。「ぼくも丹波に行くのは楽しみにしていたし、これが怪我などだったら這ってでも行きたいけど、この状態では満足な演奏はとても無理だからお客さんにもかえって申し訳ない」ということだった。
電話の声はいつものように穏やかだったが、何度も申し訳ないと繰り返す。丹波の翌日は綾部を予定していたが、すでに綾部のほうは中止に決定したという。
私としては「残念だけど、仕方がないですね。身体をしっかり治して」としか返事のしようがなかった。当初は40人集まるだろうかとヤキモキしていたが、ここ数日チケットの販売が伸びはじめて、60人以上、いやひょっとしたら80人以上が桂谷寺本堂に詰めかけるかもしれないと盛り上がりを感じていた。京阪神からも十数人、さいたまからも来る人がいて、民宿「花ひろ」に十人以上の宿泊予約もしていた。打ち上げパーティはさぞかし賑やかに・・・と思い描いていただけに、ほんとうに残念至極であった。

 というわけでここ数日、ガックリの疲労感が抜けなかったが、朝起きると窓から眺める吊るし柿が慰めてくれる。朝日に光る吊るし柿と、それをいつか食べようと待ちかまえる私がシンクロしているともいえる。そのシンクロ(共鳴・波動)のなかでつらつら考えることは、今回のコンサートの中止は必然であったということだ。結果論で言うのではなく、何か見えない計らいがあって、そうなるべくしてそうなったのだ。そのようなことを吊るし柿が朝日にきらきら光りながら語っている気がする。
シンクロといえば、真砂さんの音楽も自然(宇宙)とのシンクロである。その心のあり様を彼は、「縄文性」とか「空なる器」といった表現をする。
『食と農と里山VOL.1』の中で、真砂さんは「神様ってどこにいるの」と題した原稿に、こう書いている。

 「・・・・縄文性
それは母なる森と海に身をゆだね、自然から全く分離していない感性。
自然と差のない心。
宇宙そのものの心。
空なる器
いつの時代でも日本人は、その空なる器に外来の全てを受け入れ、
混ぜ合わせて、新しくいのちを与えてきた
・・・・・・・・・・・・・」

ちなみに今年の5月、真砂さんに本書への投稿を電話で依頼すると、「神様のことを書いていいですかね?」と言った。「もちろん、いいですよ。真砂さんの神様ならわかるから。ぼくも縄文人だから」と私は笑って応じた。
この本の表紙カバーの絵も真砂さんの作品を使わせてもらったが、「25人の執筆者一人ひとりの原稿に汗のこもった実感があって、中身の充実したよい本ができましたね」と真砂さんも高く評価してくれた。

空なる器か・・・・。なかなか難しいけれど、そういう器にならないと。
いまはとにかく真砂さんの快復を祈るばかり。    (2014.11.21)