いちばんの収穫は、爽やかな若い世代と出会えたこと

昨日(8月31日)は、丹波市市島支所のボランティアセンターからマイクロバスで今中という地域へ入り、

ある家の床下の土砂を掻き出し、泥がこびりついた床梁を掃除した。

腰痛がまだ完治していなかったし、ハクサイや大根の種まきもしたかったが、ボランティアの受け入れはあと1週間で終わるという。もう行く日がないと思い、カミさんと連れ立って参加した。カミさんも忙しい人だが今回で3回目だ。集合時間は9時半。
オリエンテーションで、「現地では写真撮影をしないでください」といった説明のあと、10人単位に振り分けられた。同行したメンバーの自己紹介によると、近隣の尼崎や西脇からの4人、和歌山や三重などから来たという若者4人。
行先の地名を聞いてもわからなかったが、鶏舎が全滅した越前さんの住む集落だった。センターから車で5~6分の距離で、国道175線からすぐ近い、家のすぐ北側に山を背負い、県道を挟んで川が流れている。この集落から五台山の麓まで坂道が2~3キロ続いているが、その沿道のいたるところに土砂崩れの跡が残る。川床や土手は激流にえぐられ、山から流れた土砂や間伐材が田んぼの中にも散乱する。

我々が担当した家の裏ではブルドザー2台が唸りをあげていた。家の裏には倉庫が2棟建っていて、土砂に埋もれて半壊状態。押しつぶされた農機具機械などがトラックで何度も運ばれていた。倉庫と家の間では、7~8人の若者が土砂をすくって地面を平らに均していた。
土砂に混じって何十トンもありそうな岩がごろごろしている。この倉庫がなかったら家を直撃していただろう。それでも倉庫から10メートルほど離れている家に流れ込んだ土砂は床上30センチほどの壁にその痕跡を残している。
床板がはがされ、土砂はすっかり片付いていたが、床下にまだだいぶ残っているという。床下にもぐる作業は若い人に任せ、ぼくは腰痛の再発を案じながら床梁の掃除に専念した。
床下にもぐった若者たちはドロドロになっていたが、黙々と作業を続けていた。
2時半には作業を終え、道具を片付けたのが3時。送迎のマイクロバスを待つ間に、木陰で自治会長の話を聞いた。
「夜中に川の水嵩が増して、これはいよいよ大変だと思い、実家の母親を避難させようと行った直後だった。母親を背中におんぶしたその瞬間、台所の床がものすごい音をあげて浮き上がってきた。時計を見ていたのでしっかり覚えていますが、母親の避難を決めてからわずか7分の間です」
まさに間一髪。直感を行動に移したことで救われたのだ。お年寄りが土砂に埋もれて亡くなったのは、この集落から数百メートル上の方だった。
「すっかり落ち込んでいた人たちも、ボランティアの皆さんに励まされ、みなさん涙ぐんでおられます。ほんとうに感謝にたえません」
そんな自治会長の話を聞きながら待つこと小一時間。送迎バスは数多く出ていたと思うが、各所へピストン運転していたので仕方がない。
ボランティアセンターではテキパキと、スムーズな運営をしている印象を受けたが、そうでもないらしい。
「本部の統括が一本化していないので、情報が錯そうして、20人の支援を求める所に3倍、4倍のボランティアの人たちが送り込まれたりしていましたよ。災害本部が立ち上がってからずっとそんな調子で、基本中の基本がまったく出来ていない」と、自治会長は嘆いていた。こうした大規模な自然災害に遭遇したことがないから、などというのは全く言い訳にならんというのだ。ごもっともな意見。市政の不祥事が多い丹波市だが、それもまたいかにも丹波らしいと思った次第。

和歌山から来ていた若い夫婦は「いずれ農業をやりたいので候補地を探している」のだという。「半農半Xがいいよ」と言うと、「そう思っています。余裕をもって農業をしたいですから」と明快な答えが返って来た。彼女は介護福祉士、彼は作業療法士だと言うので、ぼくはさっそく丹波のPRをした。
「それはいい。丹波でもきっと仕事がみつかるから、ぜひいらっしゃい。農地だっていくらでもあるから。丹波でこんな災害があったのは1世紀以上昔で、住みやすいところだよ」
(その1世紀ほど昔、我が家から20メートルほど離れた所で、家族6~7人が土砂で生き埋めになったと聞いている。我が家の裏山は崩落危険指定地)。という話はしなかった。
「天橋立、神戸、大阪、京都のどこへ出るにも1時間余り、なにしろ丹波は関西の中心地だからね。丹波のことなら田舎元気本舗のホームページを見たら参考になるよ」
(自称・村長であると名乗らなかった)
この日のいちばんの収穫は、こういう爽やかな若い世代と出会えたことだった。日本の未来は明るい、農村もまた・・・・。(2014.9.1)