桜の精に観られている ・・・・ 第41回 篠山春日能

桜の精は、西行の夢のなかで翁となって舞いを舞う。観客は、翁に観られていることを気づかず夢の中に誘われ・・・。 


毎年4月の2週目に催される「篠山春日能」は今年で第41回目(4月12日)。丹波に越してから春の通過儀礼のようにカミさんと毎年観にきているが、さて何を観てきたのか演目はほとんど覚えていない。うたかたの夢幻の世界のことだからそれでよいとも思っているが、この度の「西行桜」にしろ「葵上」にしろ殊のほか印象深かった。
能のストーリーはおよそ単純で、ワキの夢のなかに死者の霊(シテ)が現れて語るというのが多いが、「西行桜」では、シテの桜の精が翁となって西行の夢に現れる。

「京都、西行の庵室。春になると、美しい桜が咲き、多くの人々が花見に訪れる。しかし、今年、西行は思うところがあって、花見を禁止した。 一人で桜を愛でていると、例年通り多くの人々がやってきた。桜を愛でていた西行は、遥々やってきた人を追い返す訳にもいかず、招き入れた。西行は、「美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」という歌を詠み、夜すがら桜を眺めようと、木陰に休らう。その夢に老桜の精が現れ、「桜の咎とはなんだ」と聞く。「桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。」と言い、「煩わしいと思うのも人の心だ」と西行を諭す。老桜の精は、桜の名所を西行に教え、舞を舞う。そうこうしているうちに、西行の夢が覚め、老桜の精もきえ、ただ老木の桜がひっそりと息づいているのだった」(ウキィペディアより)というストーリーだ。

翁(梅若万三郎)は、黒っぽい地味な衣装を着た古老で、能の舞いはもとより静かなものではあるけれど、翁の舞いはほとんど動きらしい動きのないものだった。トン、トンと何度か足を挙げて下ろす動作をするが、その動きも注意していないと見逃すほどだ。翁の声は面のなかにこもって何を言っているのか聞き取れない。ストーリーがわかっているから、意味不明の動作や言葉でもかまわないが、しかしなぜ能は人を引き付ける魅力があるのだろうか。そこの謎があるから毎年儀式的に来ているようなものだが、白洲正子(白洲次郎の妻)は『能の物語』の「あとがき」に、次のようにわかりやすい解説を書いている。

「翁」のシテは老人ですが、ふつうの老人ではなく、長寿と幸福を象徴する神さまで、翁と呼ぶ特殊な面をつけ、「神楽」という舞をかなでます。いまはお正月か、お祝いのときにしかおこなわれませんが、ほんとうは番組の最初に置くのが正式なかたちです。はじめからしまいまで、おめでたい祝福の言葉で終わっているので、筋もなく、物語もない。演劇というより、儀式に近い曲といえるでしょう。 だが、よくみると、お能の本質ともいうべきものが、この単純な祝言の曲の中に、すべてふくまれていることがわかります。(略)
古い神社では、面が御神体になっているところがたくさんありますが、わたくしたちの祖先が、仮面というものに対して、およそどのような考えかたをしていたか、想像がつくというものです。実際にも面をつけると外部の世界から隔絶され、現実から遠くはなれて行くような気持ちになるものです。お能が、この世のものではない神さまとか、幽霊を主人公にしているのは、ひとつには面を用いることが、演技に大きな影響をおよぼしているのですが、「翁」はそういうことを無言のうちに示していると思います。いわば楽屋でおこなうはずの(面をつける)ことを、舞台の上で堂々とやってのけ、わたくしたち見物人に、これからはじまる劇は、別の世界の物語であることを、暗に知らせているのです。

「西行桜」が始まってまもなく、陽気もよかったせいか、謡曲の波動があまりにも気持ちよく数分居眠りをしてしまった。そして、翁が登場すると、ほんのかすかな動きしかしない翁の舞いに目が釘付けになった。翁は、ゆるりゆるりと面の視線を動かしながら、観客を観ている。桜の精が、西行の夢を通してわれわれを観ている。すなわち白洲正子が書いているように、西行の夢を覗いているわれわれの方が、あちらの世界(この世のものではない神さま)から覗かれているという、知らない間の逆転劇が起こっている。
逆転劇となれば、あるいは最後の最後に翁は、地味な衣装をパアーッと投げて捨てて、派手やかな衣裳が現れやしないかと想像もしたが・・・、しかしやっぱりそんな野暮なことはせず、しゅくしゅくと、何も変わらず、翁は舞台を静かに去ってゆくのであった。そして西行(福王茂十郎)は夢から醒めてそれで終わり。
たったこれだけの夢幻舞台であるのに、現実の舞台上にも桜がはらはらと散り、桜の精に祝福された心地よい夢からの目醒めだった。(2014.4.15)

写真下:能 葵上(大槻文蔵、福王茂十郎)