気まぐれな足音をたてる春の雨とヘッセ

先週は毎日雪が降っては止みしていた。昨日は晴天で気温は15度を超えた。そして今日は雨が激しい。まさに気まぐれな“春の足音”だ。


この雨のなかを小用でYさん宅を訪ねると、A子さんは笑いながら言った。
「この冬はあやうく死ぬ目にあったんよ。あのとき救急車を呼んでいたら死んでおったかもしれない」
お風呂で腰湯をしていたら動けなくなったのだという。「寝たら治る」からと家族には救急車を呼ばせなかったのが幸いしたと。
「まったく・・・正解ですよ。大怪我をしたというなら別だけど。ぼくも数年前の春、畑の中で突然地球がぐるぐる回って倒れそうになったことがあった。座ったままで2~3分続いたから、立ち眩みのようなものじゃない。一巻の終わりかなと。あれは不思議な感覚だったなぁ」
「わたしもそうよ。立ち眩みじゃなくて、突然立てなくなってしまって。この間、近所の人が救急車で運ばれて、1か月もしないうちに亡くなってね。検査、検査で薬づけにされて・・・まだ70歳になっていなかった」
A子さんも同年ぐらいだが、60歳そこそこに見えるほど若々しい。旬の食事にこだわり、地元野菜を使った食事処も、週2~3日自宅で開いている、
「A子さんは去年の暮れからずっと忙しそうだったから、きっと疲れがたまっていたんでしょ」
「ほんまに。やっぱり食事と休息がいちばんやわ。1週間ほど寝込んでしまったけれど、休みなさいと言うこっちゃねぇ、あはは・・・」

Aさんとそんな会話をして帰り、烈しい雨の音を聞きながら、ヘッセの深い言葉(本)をぱらぱらと読みなおしている。今後も読み返す愛読書の一冊になりそうだ。(2014.3.13)
老いと春(青春)について、ヘッセはこう書いている。

 春はほとんどの老人にとって、けっしてよい季節ではない。私も春にひどく苦しめられた。粉薬や医者の注射もほとんど効き目がなかった。草むらに次々に花が開くように、痛みはあちこちひろがり、ますますひどくなった。夜ごと耐え難いほどであった。それでも日中は毎日、戸外へ出られるわずかなひとときに、痛みを忘れ、春のすばらしさに没入できる休憩時間を、時には恍惚と天啓の数瞬間をもたらしてくれた。
(略)
私の言っているような体験をするためには、やはり高齢であることが必要である。数知れないほどたくさんの見てきたものや、経験したことや、考えたことや、感じたことや、苦しんだことが必要なのだ。自然のひとつのささやかな啓示の中に、神を、精霊を、秘密を、対立するものの一致を、偉大な全一なるものを感じるためには、生の衝動のある種の希薄化、一種の衰弱と死への接近が必要なのである。若者たちもこれを体験しないわけではないが、ずっと稀なことはたしかである。若者の場合は、感情と思想の一致、感覚的体験と精神的体験の一致、刺激と意識の一致がないからである。
(略)
老年が青春を演じようとするときのみ、老年は卑しいものとなる。
(略)
成熟するにつれて人はますます若くなる。すべての人に当てはまるとはいえないけれど、私の場合はとにかくその通りなのだ。私は自分の少年時代の生活感情を心の底にずっともち続けてきたし、私が成人になり、老人になることをいつも一種の喜劇と感じていたからである。

出典:『人は成熟するにつれて若くなる』ヘルマン・ヘッセ 岡田朝雄訳 草思社(1995)

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