山の木を大量に必要とした焼塩づくり(『海と列島の中世』より)

中世の海村 若狭の浦々 「重要な製塩地」
若狭湾海辺における土器による製塩は、四世紀末から五世紀、遅くとも六世紀にはいる頃には確実に始まったとみられていますが、

律令が制定されると、これが急激に発達するといわれており、大飯郡本郷の船岡遺跡から出土した船岡式土器という大型の土器が、若狭の沿岸全域で使用されていたということを聞いております。
塩業史研究の専門家である岡山大学の近藤義郎さんの表現によりますと、若狭は七世紀から九世紀にかけた製塩の「工場」のような状況を呈しており、たいへんな活気に満ちていたそうです。この調は、若狭の成年男子が負担しているわけですが、内陸部の人々の調までが塩であったのは、大型土器による大量な製塩という背景があったためです。若狭はこの時点では「律令国家の中で、塩を調として貢納する都に最も近い国」という規定を与えられていたといえるでしょう。
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九世紀つまり平安時代になると、若狭に対する律令国家の規制力は急速に弱まり、さきほど述べました船岡式のような大きな土器による製塩は衰退したといわれ、能登から丹後にかけ、共通した製塩土器の形式を持つようになると、近藤さんは述べておられます。このことは、この時期になるとこのあたりの海上交通が比較的安定してきたことを、間接的に物語っているといえるのですが、近藤さんはこうした事実を通して、土器製塩の急激な衰退は、土器に代わる製塩の道具が使われるようになったからではないかとみておられるわけです。断定はされておりませんが、鉄の釜が若狭湾では比較的早くから使用されたのではないか、と推測しておられるのではないかと思います。いずれにせよ土器以外の製塩道具を使い、山の木を伐って初期の揚浜式の塩浜で行なわれる塩焼が、十世紀まではさかのぼれると近藤さんは考えておられます。
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十二世紀以降になると、文書によって、そのころの製塩の状況が比較的よくわかるようになってきます。中世を通じて若狭の浦々は重要な製塩地であったことは紛れもない事実で、たとえば小浜市田島の秦家文書や能登の状況などから推測しますと、多鳥(田鳥)・鶴部(釣姫)などなど製塩をする浦々には、百姓たち(当時は海民も百姓といいました)の共有する塩釜が一口ないし二口あったようで、浦持あるいは長百姓(おさびゃくしょう)の保有している山の本を伐り、製塩をしたようです。つまり、比較的共同性の強い製塩が行われていたようです。
こうして焼いた塩の一部を壮園支配者に貢納しますが、これを山手塩といいます。山手の「手」は交換という意味を持っており、塩を出すことを前提にして山を使うことだと思います。塩手米が、塩を貢納することを前提にもらう米を指すのと同じですが、この山手塩を、浦の主だった十数人から二十数人の百姓が、平等に負担をしている形がみられます。もちろん十三世紀末になると山の売買も行なわれるようになりますが、製塩を通じてみると、山に関しては浦全体の規制がかなり強かったのではないかと推測されます。
しかし、平安時代以降になると、都(京都)に貢納される塩の大半が瀬戸内海で生産されたもの拡がり、若狭の塩の占める割合は低くなってきます。
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中世後期以降になると若狭の浦では特定の場所でしか製塩をやらなくなってしまったようです。これは山の木を伐りつくしたのが一つの原因かもしれませんが、製塩地は甲ヶ崎・須那浦(須浦)・食見(しきみ)などに限定されています。
戦国時代末から江戸初期ごろになると、塩つくりの専門家――塩師がこの辺りの浦にも現われてくるようになりますが、時代の流れとともに製塩において若狭の果たした役割は、全国的に見れば次第に小さくなってくるのは事実です。(続く)

出典:『海と列島の中世』網野善彦 講談社学芸文庫

コメント:鉄の文化をもって海を渡ってきた民たちは、美しい山々を見て狂喜したにちがいない。山がたくさん、十十(とと)あるので山十と呼んだのではないか(冗談)。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるはし
伊勢神宮の20年遷宮、出雲大社の60年遷宮にしても山の木々があればこそ。清らかな水も五穀豊穣の恵みも山があってのこと。
兵庫県千種町に残るタタラ遺跡を見ると、山が禿山にならないようにタタラ炉を移したと思われる。それほどタタラによる鉄づくりには大量の燃料が必要だったわけだが、製塩も中世頃まで同様だったとは・・・。兵庫県赤穂の塩田を見ているので、製塩(焼塩)と山はむすびつかなかった(赤穂の塩田は、竹のササラを組み立ててそのてっぺんから海水を流し風で 海水を濃くする「流下式」と言われている)。

赤穂海浜公園・赤穂海洋科学館