豆腐譚 (『壱岐・対馬の道』司馬遼太郎)より

昔々の事です。ふとした事がら、豆腐が病気になりました。それを聞いた大根と人参と牛旁とが、或日見舞に出かけました。

門口まで来ますと、内から豆腐のうなる声が聞えます。すると牛旁(ごぼう)が、「私は正月に風呂をいったばっかりです。ごげエに垢だらけで、何(ど)うム行きにっかけに(註・どうも行きかねるので)人参さん行(い)たちおくれ」と云ひ出しました。と人参は「私は今店で酒をひっかけチ来ました。足もとはふらふらするし、それエごげエに(註・その上このように)顔(つら)が赤うし、息のくさかッです。何(ど)うか大根さん行たちおくれまっせエ」と
申します。しかたがないので、大根が一人で行く事になりました。大根は豆腐の枕元に行って「御機嫌は如何ですか」と申しますと、豆腐が「有難うござります。しかし私ァもう、もとのまめにはなれまっせんでつせう」と云って泣き出しました。

 この説話(『山口麻太郎著作集』 佼成出版社刊)の提供者の名は、編の最後に記入されている。沼津村松島さち子さん、という。
壱岐の村々で語りつたえた咄(はなし)を、明治二十四年うまれの山口翁が柳田国男(一八七五~一九六二)の在世当時にあつめた。壱岐は民話の宝庫であるといわれていたが、この翁とその協力者である明治二十九年うまれの目良(めら)亀久氏がいなければこうもみごとな形で残らなかったろうと思われる。このお二人の生年をわざわざ書いたのは、この人たちの英気溌刺とされていた年代が、民話の伝承力にとっても最後の時代的段階だったろうと思われるからである。
しかしそれにしても、豆腐が病気になるというのは、みごとなものである。おそらく作り手はいつも台所で働いていた婦人だったであろう。壱岐では、ある時代まで豆腐は家庭でつくった。作りながら大豆と健康ということで落ちを思いつき、あとは手もとの大根をとりあげ、それに人参、さらには牛苓というキャストを参加させたのにちがいない。
(略)
国道からすこし歩いて、国分寺跡とされる野へ行った。途中、壱岐牛のための牧草の畑があった。 そのむこうにわずかな芝地があってそこが寺跡らしいが、べつになにも遺っていない。
国道にもどると、小さなよろず屋が道端にある。飲みものを買って順に穴をあけていると、豆腐も売っていることを知った。豆腐は琺瑯(ほうろう)びきの容器に二丁分しか残っていなかったから、今日のぶんはほぼ売りきれたのであろう。この二丁の豆腐を念のために写真に撮った。いまこの稿を書きながらながめると、質感がチーズのようで、ひどく固そうである。

 豆腐は漢の高祖劉邦の孫の劉安が発明したといわれる。華中に長く住んだ人にきいたことがあるが、日本の餅箱のようなものに入れ、売るときは庖丁でたたき割るほどに固い。むろん、そうでない豆腐もあるが。
朝鮮の豆腐はどうかと思い、ほうぼうの友人に電話をかけてみた。
(略)
「朝鮮の豆腐はですね、固いです」
と、答えてくれた。
「縄でからげられますか」
「からげようと思えば、可能です」
ついでながら、豆腐を縄でからげるということを最初にきいたのは、土佐の高知のひとたちからであった。高知では四、五十年前まで豆腐は固く、荒縄でからげて持ち帰ったという。察するに江戸期までの、あるいは上代の豆腐とはそういうものであったかと思ったりした。もっとも簡単にそうも推測できない要素として、高知の場合、別なことがある。いまの高知市にもその町名が残っているが、城下の鏡川の北岸に唐人町というのがあり、秀吉の朝鮮侵略のときに連れて帰った唐人に屋敷地をあたえて住まわせたという。かれらに豆腐の専売権をあたえて他の者にはやらせなかったというから、高知の豆腐はひょっとするとこの系列が相当ながくつづいたかもしれないのである。
豆腐は、朝鮮語でduvuという。
「やはり麻でしぼるのですか」
と、李哲氏にきいてみた。禹氏との間接のやりとりとおそらくつきあわせれば同じになるのかもしれないが。
「麻というよりも、木綿の粗い布ですね。この点は、日本の奴豆腐とかもめん豆腐とかと変らないと思います」
李哲氏はいった。
焼き豆腐もあるという。ただし日常には用いず、先祖の霊位にささげる供物としてつかった。その場合は、日本の切り餅程度に切り、一つずつ串にさして捧げる。串にさすのは、日常の食用には用いない。つまり田楽はない(もっとも豆腐にみそを塗り串をさして食う田楽というのは日本でも室町期ぐらいからのものらしい)。
李哲氏の話では、朝鮮でも豆腐をなまで薬味をつけて食いもし、煮て食ったりもする。日本とおなじである。
(略)
ともかくも、国分寺のそばの国道ぞいのよろず屋の豆腐はいかにも昔豆腐といった感じで、かつて高知できいた土佐の数十年前の豆腐を連想した。その連想だけでは「固い豆腐」という実体のつきとめようがないために、鄭、萬、李の三氏の夕食後の時間を騒がせたのである。要するに日本の古豆腐(?)も、朝鮮の豆腐もほぼおなじものらしい。
李氏は最後に、
「朝鮮(南朝鮮)では、日本の豆腐ということで、やわらかい豆腐も、豆腐屋には売っています」と、つけ足してくれた。
壱岐のこの豆腐をいっそ買って宿にもって帰ろうかと思った。しかし持ちかえるための容器がなく、縄でからげるにはすこしやわらかそうでもあった。それに縄そのものがそのあたりになさそうだった。(続く)

出典: 『壱岐・対馬の道』司馬遼太郎 朝日文芸文庫(1975)

コメント:この文章を読んで思い出した。もう十数年前のこと、『木彫刻と建築』の取材の折に南部白雲さん(井波町の彫り物師・三代白雲)と一緒に五箇山の平を訪ねたことがあった。その平で固い豆腐を買って帰り、白雲さんの家でネギとしょうがをたっぷり載せ冷奴で食べた。感動する美味さだったのでよく覚えている。ただ、縄でしばって持ち帰ったのかどうかは記憶が定かではない。
そこで白雲さんに電話してみると「ああ、わしらは『山の豆腐』と言っているけど、縄で縛れるよ」という返事だった。
「たしかあそこは平家の落人部落だったね?」「そうや、コキリコ踊りは平家が都をしのんだ踊りやね」「そうそう、コキリコ踊りも思い出した・・・」
いつのころから柔らかい豆腐になったのか知らないが、壱岐や四国に限らず、豆腐は縄でしばれるほど固いのが普通だったのではなかろうか。
民話のなかで「豆腐が病気になりました」とあるのは、「失敗して、豆腐がやわらかくなってしまった」ということを暗示しているのかもしれない、と勝手に解釈している(もちろん、やわらかい豆腐も美味いが)。
五箇山の平や壱岐には「病気になっていない」固い古豆腐(?)をまだ売っているはずだ。その元気で固い豆腐をまた食べたくなった。おそらく司馬遼太郎も固い豆腐に未練があってこれを書いたのだろう。