春がきたが、沈黙の春だった。

自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。

裏庭の餌箱はからっぽだった。ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。いつもだったら、コマドリ、スグロマネシツグミ、ハト、カケス、ミソサザイの鳴き声で春の夜は明ける。そのほかいろんな鳥の鳴き声がひびきわたる。だが、いまはもの音一つしない。野原、森、沼地――みな黙りこくっている。
(略)
農業も原始的な段階では、害虫などほとんど問題にならない。だが、広大な農地に一種類だけの作物を植えるという農業形態がとられるにつれて、面倒な事態が生じてきた。まずこの農作方式は、ある種の昆虫が大発生する下地となった。単一農作物栽培は、自然そのものの力を十分に利用していない。それは、技術屋が考える農業のようなものである。自然は、大地にいろいろ変化を生み出してきたが、人間は、それを単純化することに熱をあげ、そのあげく、自然がそれまでいろんな種類のあいだにつくり出してきた均衡やコントロールが破壊されてしまった。自然そのもののコントロールのおかげで、それぞれの種類には適当な棲息地があたえられていた。だが、新しい農業形態がとられ、たとえばコムギばかりがつくられるようになると、まえにはいろんな作物があったために十分発生できなかったコムギの害虫は、思いきりふえてくる。
(略)

 だが、現代の殺虫剤はもっと危険なのだ。いろいろ数ある殺虫剤は、大きく二つに分けられる。一つは、一般に《有機塩素化合物》と呼ばれるもので、DDTがその代表であり、もう一つのグループは、有機燐酸系の殺虫剤で、マラソン、パラチオンなど。共通な点は、まえに書いたように、どれも炭素原子を骨格として構成されていること。この炭素原子は、また生物界には欠くことのできない要素で、このため、この原子をもとにつくられているものは、《有機》と呼ばれる。まず手はじめに、殺虫剤の構造を調べ、生命の源である炭素原子と関係があるのに、なぜ死をまねくようなことになるのか、考えてみよう。
主要成分である炭素―この原子は、どの原子とも鎖状、環状、そのほかいろいろな形で結合し、またほかの物質の原子ともつながる、ほとんど無限といっていいほどの力をもっている。このような自由自在な炭素の働きがあればこそ、生物はバクテリアからシロナガスクジラにいたるまで、信じられないくらい自由自在な形態の変化を見せている。脂肪、炭水化物、酵素、ビタミンなどの分子と同じように、複雑な錯蛋白質(さくたんぱくしつ)分子のもとは、炭素原子である。また炭素原子は、おびただしい数の無生物の土台で、炭素は生命のシンボルとはかぎらない。

有機化合物には、炭素と水素が簡単に連結したものもある。そのうちでもいちばん単純なのは、メタン(沼気(しょうき)ともいう)で、バクテリアによる水中有機物の分解によって、自然に発生する。適当に空気とまざると、炭坑内でおそろしい爆発を起す。この構造式はとても単純で、一つの炭素原子に四つの水素原子がついている。
さらにこの四つの水素のうちの一つなり、また全部をひきはなして、ほかの元素におきかえることもできる。たとえば一つ水素をとって、そのかわりに塩素をおくと、塩化メチルができる――   
また水素を三つはずし、塩素にかえると、麻酔のときに使われるクロロフォルムができる
水素を全部とりさり塩素にかえると、四塩化炭素になる。みんながなじみのドライクリーニングによく使われるのは、これである。
このように塩素置換したメタン分子にあたえたいろんな変化の図表で、炭化水素の塩素置換体がどんなものか一応説明されると思う。だが、これだけでは、炭化水素の化学世界の複雑さ、有機化学者がさまざまな物質を数かぎりなくつくり出してゆく魔法の正体はわからない。たとえば、炭素原子一つという単純なメタン分子のかわりに、たくさんの炭素原子からなる炭化水素分子を使って、環状、あるいは鎖状、側鎖、枝状にならんだ炭素に、水素とか塩素とかの単純な原子ではなくて、もっと複雑な基を結合させる。すると見た目にはほんのわずかの差にすぎなくても、物質全体の性質ががらりと変る。たとえば、炭素原子に何か結合するか、というだけではなく、どの位置に結合するかが、大切である。このような巧妙な操作によって、ものすごく有毒な化学薬品がいつもつくり出されたのだった。(続く)

出典:『沈黙の春』レイチェル・カーソン 青樹簗一訳 新潮文庫

コメント:原著はアメリカで1962年に出版(日本語訳は2年後)というから、もう半世紀前のこと。世界的にもベストセラーになった名著ではあるけれど、いまだに、「アマゾン選定『一生のうちに読むべき100冊』邦訳リスト」のなかの52番めにあるというのは、ある意味不幸なことだ。いまや遺伝子組み換え種子とセットの殺虫剤・農薬が広まるなか、カーソンの警告した状況がなんら変わっていない(むしろ深刻な)ことを物語るからだ。
(ちなみに、この100冊のうち日本の作家では村上春樹「ねじまき鳥クロニエル」の一冊のみ。)
・・・幸い、この丹波の山里は、春の訪れとともに小鳥の声でにぎわう。

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