三つの高尚な無敵の術、断食すること――待つこと――考えること

顔に微笑を浮べてシッダールタは、立ち去って行く僧を見送った。眠りは彼を大いに元気づけたが、空腹は彼を大いに悩ました。

二日間何も食べなかったからだ。彼が空腹に耐える力を持っていた時期は、ずっと前に終っていた。悲しく、同時にまた笑いをもって、あの時期を彼は思い出した。あのころ彼はカマーラの前で三つのことを自慢したのを思い出した。
三つの高尚な無敵の術、すなわち、断食すること――待つこと――考えることができた。それが彼の所有であり、彼の強みであり、力であり、確実な杖であった。青春の勤勉な、辛苦に満ちた年月の間に、この三つの術を学んだ。それ以外のものは何も学ばなかった。これが今は彼を見捨ててしまった。三つのどれもが、断食することも、待つことも、考えることも、もはや、彼のものではなかった。最もあさましいことのために、最もはかないことのために、官能の喜びのために、安逸の生活のために、富のために、あの三つを放棄してしまったのだった! 実際、彼は奇妙な経路をたどってきた。今、彼はほんとに小児人になってしまったと思われた。(略)

(シッダールタがゴーヴィンダの問いに応える)

「・・・・全面的に罪にけがれている、ということは決してない。そう見えるのは、時間が実在するものだという迷いにとらわれているからだ。時間は実在しない、ゴーヴィンダよ、私はそのことを実にたびたび経験した。時間が実在でないとすれば、世界と永遠、悩みと幸福、悪と善の間に存するように見えるわずかな隔たりも一つの迷いにすぎないのだ」
「どうして?」とゴーヴィンダは不安そうにたずねた。
「よく聞きなさい、友よ、よく聞きなさい!私もおん身も罪びとである。現に罪びとである。だが、この罪びとはいつかはまた梵になるだろう。いつかは涅槃に達するだろう。仏陀になるだろう。さてこの『いつか』というのが迷いであり、たとえにすぎない。罪びとは仏性への途上にあるのではない。発展の中にあるのではない。われわれの考えでは事物をそう考えるよりほか仕方がないとはいえ。-いや、罪びとの中に、今、今日すでに未来の仏陀がいるのだ。彼の未来はすべてすでにそこにある。おん身は罪びとの中に、おん身の中に、一切衆生の中に、成りつつある、可能なる、隠れた仏陀をあがめなければならない。ゴーヴィンダよ、世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ。あらゆる罪はすでに慈悲をその中に持っている。あらゆる幼な子はすでに老人をみずからの中に持っている。あらゆる乳のみ子は死をみずからの中に持っている。死のうとするものはみな永遠の生をみずからの中に持っている。・・・・」

出典:『シッダールタ』ヘルマン・ヘッセ 高橋健二訳 新潮文庫


コメント:第一次大戦の停戦後まもなく、1919年から書きはじめ、3年がかりで完成したという世界的名作中の名作(ヘッセ45歳のとき)。何度読み直しても心に突き刺さるものがあるが、「三つの高尚な無敵の術」という言葉には改めて脱帽した。
訳者の「解説」によると、ヘッセは若い時からインド思想を20年研究していたというから、なるほど、そういうことだったかと納得。また、横尾忠則が『隠居宣言』のなかで、ヘッセの代表作のひとつ『荒野の狼』は1960年代のアメリカでヒッピィーのバイブルになっていたと書いていたのも納得した。