そこは生き地獄だった。

一九七〇年、私は偶然の機会から、精神病院の内側の世界を知った。朝日新聞に「ルポ・精神病棟」を連載した。

そこは生き地獄だった。この地獄はどうしたら解消できるのだろうか、と考えた。しかし、本書を手にとってくださった多くの読者の方々と同様、私には、精神病棟のない社会なんて思いもよらなかった。だから、その後、病棟内の幸せにばかり心ひかれて、開放型精神病院詣でを繰り返した。
「ルポ・精神病棟」から一五年たった時、イタリアにマニコミオ(精神病院)をなくす法律ができていたことを知った。イタリアは二〇世紀の終わりまでに、すべてのマニコミオを閉じた。マニコミオの代りに、全土に公的地域精神保健サービス網を敷いた。
そして今、トリエステ、アレッツォ、ヴェローナ、フェッラーラ、マントヴア、トゥレント・・・・・・など多くのまちが、精神病院を使わずとも重い統合失調症の人々を支え得ることを証明している。
「ルポ・精神病棟」から三九年たった今、やっと、解決編つまり本書を古く機会が訪れた。
                                                                                        (「はじめに」より、続く)

 一丸七〇年一一月五日、私はアルコール依存症を装って、都内の精神病院に入院した。
そこは、有名医学部精神科出身の医師が経営しており、精神科医の間では「中の下」の病院と言われていた。コワイお兄さん患者による弱い者いじめは日常的にあったが、命にかかわるほどのすさまじさではなかった。それでも、巷の市民生活では絶対にありえない、おぞましい風景が、数知れず目撃できた。
入院中の私にとって一番怖かったのは、入院者から「電パチ」と呼ばれる電気ショックだった。この病院は、電気ショックを懲罰に使っていた。脱走した薬物依存症患者がこれをやられた話は入院直前に聞いていたし、私の入院中にも、脱走を企てた女性がその洗礼を受けた。

一度だけピンチがあった。年配の女性看護師がナースステーションの前で私を抱きしめ、私の頭をなでながら、「こんな可愛いアル中、見たことないわ」と他の看護師に言った。アルコール依存症と言えば、身も心もボロボロの中年男が誰の目にも浮かぶ。ところが私は当時三一歳で、自分で言うのもなんだが血色極めて良好のヤサ男。こんなピチピチしたアルコール依存症患者がいたら、学会発表ものだ。まずいことになったぞ、と思ったが、しかし、それ以上の詮索はなかった。

屈辱的な場面は、数え切れないほどあった。まず回診。私たちは、居間兼寝室兼食堂の四〇畳ほどの部屋で二四時間の大半を過ごした。一〇日に一度の副院長の回診もこの大部屋で行われた。部屋長(病院から指名されたリーダー)の「かいし~ん」という号令で、壁を背にして横一列に正座する私たち同室者二五人。白衣の副院長は看護師やケースワーカーら数人を従えて、立つたまま、尊大な口調で一声ずつ掛けていく。一瞥だけで終わり、もある。

どの入院者も、決まって自分の退院の見通しを聞こうとするが、まず色よい返事はない。
「お願いです。退院させて下さい」と畳に頭をすりつけて懇願した大学生は、副院長に鼻であしらわれる。その彼は回診のあと畳に大の字になって、天井を凝視していた。目からは涙があふれていた。確か、大阪大学の学生だった。
(続く、「第1章」の冒頭より」

出典: 『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』 大熊一夫 岩波書店

コメント:精神病院は、一般の病院と比べるとあまり“縁”のない人が多いせいか、その深い闇を覗き見ることはなかなか難しい。著者はしかし勇気をもってその世界に潜入してルポした。最近は精神病棟の“異常な世界”がだんだん明るみになってきて、国内でもイタリアのように精神病院を無くそうという運動も起こってきているようだが、本書はその問題提起となっている。
多くの医療問題・矛盾は、「食と農」に無関係なことではないし、不透明な精神病院の問題も同様である。