渇きの前では、熱にほてった額に降った雪の一とひらにしかすぎなかった

男は、ぐったり、砂の壁によりかかった。両腕と頭を、砂の中にめりこませた、襟元から流れこんだ砂が、シャツとズボンの境で、ごろごろ枕のようになる。

いきなり、胸、首筋、額、内股の順に、はげしく汗がふきだしてきた、いま飲んだ水が、そっくりそのまま、流れ出してしまうのだ。汗と砂が化合すると、芥子(からし)入りの貼り薬にでもなるのか、ひりひりと皮膚にしみた。皮膚は、はれあがって、ゴムびきの合羽になる。
女は、すでに、仕事にかかっていた。とつぜん、男は、深い疑いにとらわれる。残りの水を、女が飲みつくしてしまったような気がしたのだ。あわてて家に引返す。
水はそっくり残っていた。もう一度、三口か四口を一気に飲み下し、あらためてその透明な鉱物の味に驚嘆しながらも、やはりこみあげてくる不安は、かくしきれない。これではとうてい、夕方までも、もちはしないだろう。もちろん、食事の仕度など、できっこない。連中は、ちゃんと、計算ずみなのだ。渇きの恐怖を手綱にして、たくみにおれを、あやつるつもりなのだ。
麦藁で編んだ日除けの帽子を目深かにかぶり、追われるように、外に出る。思考も、判断も、渇きの前では、熱にほてった額に降った雪の一とひらにしかすぎなかった。十杯の水が飴なら、一杯の水はむしろ鞭にひとしい。
「どこにあったんだい、そのスコップは……?・」
女は、ちらと軒下を指さし、疲れた微笑をうかべ、袖口を額の汗におしあてた。ねじふせられながらも、とっさに、道具の仕末だけは忘れなかったものらしい。砂のなかで暮しつけた者が、しぜんに身につけた心構えなのだろう。
スコップを手にしたとたんに、折りたたみ式の三脚のように、疲労で骨がずるずると短くなる。そう言えば、昨夜からほとんど一睡もしていないのだ。(続く)

出典: 『砂の女』 阿部公房 新潮社(1962年)

コメント:ノーベル文学賞候補とも言われた阿部公房。それに値する世界的名作だ。改めて読んで、この芸術作品のスゴサに気付いた。構成力、たくみな比喩、文体のリズム・・・。
アリ地獄のような特殊な砂の世界を描いているが、「水の渇き」をほかの何か(たとえばお金、愛情、人間のあらゆる欲望)に代えてみれば、我々の日常世界そのものではなかろうか。 
では、砂とは何か? それは、生のジレンマであり、厳しい現実であり、社会であり組織であり・・・子宮(母胎)そのものであり・・・、ともいえる。いずれにしろ、人それぞれの解釈をゆるすところが芸術作品たるゆえんだろう。