日本の有機農業の先駆者 一楽照雄氏

 「日本有機農業研究会40周年記念シンポ」 

 皆さんは一楽照雄氏を御存じであろうか? 古くからの消費者の皆さん、市有研の生産者メンバーは当然ながら知っていると思うし、一楽氏が元気なころに講演を聞いた方もおられるかもしれない。また、日本有機農業研究会の大会に参加したことのある方もご存じだと思う。
 一方、長い間市島の有機野菜は食べ続けて「提携」という言葉はよく知っているが、一楽氏はあまり知らない方もおられるかもしれない。私自身は、有機農業に関わった時に日有研(日本有機農業研究会)からいただいた月刊誌「土と健康」に一楽氏の書かれた記事がよく載っていたが、本人に直接出会ったことはない。市島に入植したばかりの頃は、日々の農作業、鶏舎の建設などで忙しく、日有研の存在そのものが日常的な生活からほど遠く、市有研のメンバーが全国大会の参加することになっても自分自身が大会に行くことになろうとは夢にも思わなかった。

  一切の商業主義的な考え方を否定した  

  「有機農業も究極には耕運機も否定し、牛耕をすべきである。」と一楽氏が言っておられるというのを故一色作郎氏から聞いたときは、耕運機でも農業は労力的に大変でそろそろトラクターに乗り換えようと思っているのに、昔ながらの牛を使って畑を耕せなどなんと変わった人物だろうと思っていた。また有機農業に対して強い信念を持ち、一切の商業主義的な考え方を否定し、その強固なあり方で有機農業界では「天皇」と呼ばれていることも聞いていたので、近づきがたい人物とも思っていた。しかし、海外で盛んになり始めていた「オーガニックファーミング」を最初に日本語で「有機農業」と命名し日本の有機農業の始まりを作った重要な人物であることは知っていた。

 最初に「提携運動」を提唱した 

  日本有機農業研究会の初代代表であった一楽氏は1994年(平成6年)2月に亡くなられた。享年87歳であった。その一昨年前にアジアの有機農業関係者が日本に来て、第1回目のIFOAMアジア大会が開催されており、私はその時は通訳ボランティアで参加した程度だった。
一楽氏が亡くなられて1年後に第2回目のIFOAMアジア大会が韓国で開催され、私自身が日有研から召喚され、本格的に関わりを持つことになった頃は、一楽氏はもう会にはおられなかった。
日有研は今年で来年度の総会で40周年を迎える。それに加え、神戸大会は各地の提携団体に大きな影響を残しているようだ。世界にTEIKEIという言葉が広がっている現状、海外でCSAが盛り上がっていることなどが大きな反響を呼んでいる。「提携の復興」が最近、また聞かれるようになってきている。最初に「提携運動」を提唱した、一楽氏の思想を見直そうという動きもそんな中で出てきているようで、18日の幹事会の翌日、東京・代々木の「国立オリンピックセンター」にて「一楽思想0提携40年の実績と現代的意義、その発展へ」と題して、シンポジウムが開催され、報告者の一人として出席してきた。

 「もはや、提携の時代は終わった」という声も    

 有機農産物も一楽氏が有機農業を広め始めた1970年代から比べると、一般の消費者への関心は高まってきている。以前に比べると、有機JASマークのついている農産物もたまに一般市場でも見受けられるし、「オーガニック」という言葉がおしゃれなイメージで売り出されている。一方で有機農業の世界では「提携」とか「一楽思想」は古臭いイメージで語られ、「もはや、提携の時代は終わった」という声も聞かれるようになっている。前日の幹事会でも幹事から「いまさら、一楽思想を検証するようなシンポジウムに何の意味があるのか。」という声も聞かれた。
私自身も面識のない一楽氏の思想について語ることはできないので、翌日の報告会では市島の現状(会員数が減少していることなど)や海外でのCSAの広がりについて説明し、これまでの「提携」の成果について語るにとどめた。
報告者は一楽氏の生前から関係が深かった生産者、高畠町の星氏、八郷町の魚住氏、柿木村の福原氏、和光市の並木氏、小川町の金子氏、野木町の舘野氏、若手新規就農者の間塚くん、消費者の若島氏、生協の大石氏、埼玉大学の本条氏。

 協同組合運動に関心が高かった    

  一楽照雄氏は1906年(明治39年)に徳島県那賀郡羽ノ浦町で生まれた。学校が生地から遠かったため、小学校5年生の時、伯父の家にあずけられ、一楽家の養子になる。伯父の家の家業を手伝いながら勉強し、東京帝国大学に入学、1930年(昭和5年)に同大学の農学部農業経済学科を卒業。同級生が官僚を目指す中、協同組合運動に関心が高かった氏は、産業組合中央金庫に入社、以降、農林中央金庫に勤務し、1958年(昭和33年)には全国農業協同組合中央会常務理事に就任。長い間農協に関わり、1965年に常務理事を辞任し、協同組合経営研究所理事に就任、協同組合の研究を進めた。しかし、協同組合の当時の在り方や農業の現状に疑問をいだき、1971年には近代農業に疑問をいだく研究者、ジャーナリスト、生産者を集め、「日本有機農業研究会」を発足し、日本で最初の有機農業団体が設立した。

 組合員の福祉を目的とする「協同組合」

  1974年に米国のロデール氏著の「有機農法=自然循環よよみがえる生命」を翻訳・刊行。また、1978年の日有研の大会で「生産者と消費者の提携の方法・10カ条」を発表しこれが各地域の提携団体の運営上の原則の大きな参考となった。
また国際有機農業運動連盟(IFOAM)には初の総会から参加しており、海外の有機農業の動きに大きな関心があったため、日有研と海外の繋がりが生まれ、毎回IFOAMの大会に日有研のメンバーを出してきた背景もあり、私がIFOAMに関わる大きな要因になった。
農協、農林中金、協同組合研究所と一楽氏と協同組合の関係は深いものがある。協同組合とは一体なんなのか。農協は農業協同組合、組合員は農家で構成されている。コープとか生協は生活協同組合とか消費生活協同組合、消費者の協同組合だ。協同組合の発生の地は英国で、生活弱者がわずかながらの出資金を出し合い自分たちの生活の安定を目指して事業を行う目的で設立した。協同組合は農協であれ、生協であれ、組合員の福祉を目的としており、非営利団体である。株式会社とは異なり、出資金の額に差があっても組合員には平等の発言権があり、民主的な運営、相互扶助の関係を理解するための学習を進めることが原則になっている。

 「万人は一人のために、一人は万人のために」

 この協同組合の考え方に共鳴し、一生の大半を協同組合の推進、特に農業協同組合の発展に力を注いだ一楽氏であったが、日本の農業を健全な方向に導くべき農協は巨大化する一方で、日本の自給率は低下、農村の高齢化、後継者不足、農薬・化学肥料の使用による環境汚染、農家自身の健康障害、しかも農協が率先して農薬を販売している実情に大きな矛盾を感じた。農協は農業者の利益さえ守ればよく消費者の安全性は二の次になっている、生協は消費者の利益を守ればよく、農業者の生活とは関係なく、安く仕入れることに焦点が向けられている。これでは協同組合が目的とする社会の公正や相互扶助の精神(協同組合精神:「万人は一人のために、一人は万人のために」)が守れないのではないか。一楽氏が有機農業を提唱するなかで、生産者と消費者の提携の関係を重視したのは彼の協同組合思想の理想と信念があり、日本の有機農業が「提携」の運動を中心に広がった諸外国にない独特の発展を遂げたのは、こういった背景があるからである。

 農家だけでは、根本的な食の問題は解決しない

 有機農業の推進は、単に農業の技術上の問題に止めてはならないというのが一楽氏の考えだ。農薬、化学肥料の使用によって、食の安全性や本来の食味が損なわれ、川や海が汚染されることになった。だからと言って、単に農薬や化学肥料の使用をやめ、有機農業を推進するだけでは根本的な問題の解決にはならなのではないだろうか? 何故、市場で規格に従ったまっすぐな胡瓜が求められ、食品が工業製品のように扱われ、化学物質漬けの食べ物が出回るようになったのか? 農業の問題は農家だけの問題に止めては、根本的な食の問題は解決しないのではないか? 一楽氏はこれらの問題に疑問を感じ、あえて有機農業の推進に生産者と消費者の提携の関係を強調したように思う。