縄文人がトチの実をどのようにして食ったか・・・ 『十津川街道 街道をゆく12』

やがて老杉の木立の密度が濃くなり、急に道が平坦になった。

木立のなかに、檜皮(ひわだ)ぶき、入母屋造りの豪壮な社殿が見え、とてもこれが郷社程度の社格とはおもわれない。社殿に隣接して、路傍からたかだかとせりあがった石垣の上に鎌倉の地頭の館のような建物が構築されている。いまは社務所だが、明治の神仏分離以前は高室院という別当寺(宰領者のいる寺)であった。
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石垣の一隅の石段をのぼって、小径のつづくままに行くと、高室院の裏に出た。
そこに大きな桶があって、山より引かれている樋から、間断なく水がそそぎつづけられている。桶のなかに、大ぶりの栗の実のようなものが填(つま)っていた。一個つまみあげると、栗の実に似ているが、頭がとがっていない。
「トチ(栃、橡)の実ですよ」
と、勝山さんがいわれたので、目が覚めるような感動でそれを見直した。縄文時代の主要な食物のひとつなのである。大阪の千里にできた国立民族学博物館ではこの実の調理法を民俗学的に、あるいは考古学的に研究している若い学者がいて、なかなか手のこんだものであるらしい。
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私は、トチの実のほうに関心があった。縄文人がトチの実をどのようにして食ったかということについては、どの食物史の書物にも書かれていない。最近、文化人類学・民俗学の学者の一部が、各地にのこるさまざまな方法を採集しはじめたばかりなのである。
トチの実はにがい。その苦味はサポニンとかアロインによるものだというが、ともかくそれを去らなければ食物にならないのである。
「厄介なものですよ」
と、老神職はいった。
まずあの固い外皮をむいて中身を灰汁に数日もしくは一週間つけておくことからはじまるのである。そのあと流れの速い谷川の水で一週間さらす。その上で木の臼に入れて舂(つ)き、それヘモチゴメを入れて蒸し、しかるのちにだんごにして食う、という。
トチを食べるのは日本だけでなく、中国の華南の高地に住む少数民族の一部でそれが見られるらしいが私はよく知らない。日本には、栃とか橡、あるいは朽、杼の文字を冠した地名が多い。
吉田東伍博士の『大日本地名辞書』の索引に載っているだけでも、三十三ヵ所ある。越後の橡尾、越前の橡泉、下野の栃木、磐城の栃窪、陸中の朽内、上野の朽本、武蔵の栃谷、信濃の栃原といったぐあいである。主として北陸、関東、奥羽に多いのは、九州から畿内に入った水田耕作があるいは北進し、あるいは東進し、平安後期になってようやくそのあたりに及ぶといった地方と偶然かどうか、かさなっている。水田耕作には自然の適地ならともかく、やや農業土木を必要とする地帯は、農業土木を興すに必要な条件がととのってから水田化するわけで、それまでは縄文時代以来の食物に多くを頼らざるをえず、そういう暮らしの中では、トチの木の多い尾根、峠、谷が重要な意味を持ち、自然地名として呼称されがちになるのかもしれない。
トチを冠した地名の印象は、重く暗い。
植物としておなじ仲間であるマロニエが、明治・大正の日本人にパリの華やかさの象徴として印象されたのとずいぶんちがっている。
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 (「十津川 トチの実」より)

出典:『十津川街道 街道をゆく12』司馬遼太郎 朝日文庫(1983)

コメント:トチの調理法はたしかに大変手間のかかるもので、近所の知り合いが実際やってみたが、「まずあの固い外皮をむいて中身を灰汁に数日もしくは一週間つけておく」と聞かされて、こりゃアカンと思った。縄文人失格である。
熊野を歩きたい、十津川にも行きたいとずっと念願しながら実現できていない。この本を読むとますます思いがつのる。