水にさらして赤土も食べた・・・勝海舟の回想より

天保の大飢饉の時には、おれは毎日払暁に起きて、剣術の稽古に行く前に、徳利掲ということをやったよ。

これは、徳利の中へ玄米五食ばかりを入れて、その口にやっとはいるくらいに削った樫の棒で、こつりこつり搗(つ)くのサ。おれは毎朝掌に豆のできるほど搗いてこれを篩(ふるい)でおろし、みずから炊いて父母に供したことがあるよ。これは、白米は高くてとても買われず、かつは玄米にすると糠や粉米ができるから、小身者の皆したことだ。世間には、また、こういうふうにした米の研ぎ汁を貰いに来る細民もあったよ。しかし徳利搗にぱおれも閉口したっヶ。
当時幕府では、上野広小路へ救小屋を設けて貧民を救助したが、餓莩路(がひょうろ)に横たわるということはこの時実際にあったよ。また、幕府は浅草の米庫を開いて、籾を貧民に頒(わ)けたが、その時、最も古いのは六十年も前の籾で、その色は真赤だったよ。それより下って五十年前くらいのは、ずい分沢山あったっヶ。赤土一升を、水二升で溶いて、これを布の上に厚く敷いて、天日に曝し、乾いてから、生鉄の粉などを入れて団子を作り、また松の樹の薄皮を剥いで、鯣(するめ)のようにして食物にしたのもこの時だ。
おれもこの土団子を食ってみたが、ずい分食えば食われたよ。しかしあまり沢山食うと、黄疸のような顔色になるということだった。
また、さし搗というのもやったことがある。これは一番米が減らないよ。元来おれは貧乏だったから、自分で玄米を買って来て、そしてこのさし揚をやったのサ。
この頃は妻と二人暮しだったから、妻が病気でもした時には、おれは味噌漉(みそこし)を下げて、自分で魚や香の物を買いに行ったこともある。今の若い者らが、時にはおれの所へ来て、無心をいうから、その時はおれの昔話をして聞かせると、それでは飯が食えませんというよ。まあ呆れるではないか。(続く)

※餓莩(がひょう)・・・・餓死者のこと

出典: 『勝海舟文言抄』(回想-そのI 「貧乏の体験と工夫」より)高野澄編訳 徳間書店(昭和49年)

コメント: 享保・天明・天保年間に起きた飢饉を「江戸三大飢饉」と言われる(寛永を含めると四大飢饉)。天保の大飢饉は、1833年(天保4年)に始まり、1835年から1837年にかけて最大化し、1839年(天保10年)まで続いたという。わずか180年ほど前のことだ。
勝海舟は貧乏だったにせよ武家でもこんな有様だったとは。精米機のない時代のことゆえ、白米はそうとう高価だったのだろう。玄米を食べればいいものを、海舟もよほど白米食に馴らされていてようだ。
田舎者が江戸でしばらく暮らしていると脚気の症状が出て、田舎に戻るとピタッと治ったという。そのため「江戸病」と呼ばれた。玄米を食べていた者が江戸で白米をたべるようになったからだということが後々にわかった。
赤土を天日にさらして食べたというのは驚かされるが、シベリア捕虜収容所の記録にも、飢えに苦しんだ捕虜兵士たちが、粘土層の白土を薄くのばして焼いて食べたという話が出てくる。土には微量なミネラルが含まれているし、土を食べる習性のある動物もいるのだから、飢えたら人間も動物本能がよみがえるのか。
ちなみにウキィペディアで「土(食材)」で調べると、
「人類が土壌を摂食する文化は世界各地に分布しており、消化作用の促進、滋養強壮、解毒などの効果があるとされている。樺太のアイヌ民族も、調理に土を使っていたことが知られている」とあった。