科学が思考のメカニズムを明らかにできたら 

慈雲尊者については「十善法語」を広めた江戸中期の高僧という程度しか知らずに、その書を初めて見たとき大きな感動を受けた。

書の大家も称賛するその“凄さ”を論ずるのはおこがましいが、昨秋も法楽寺(大阪市南田辺)のギャラリーでこの大書を前に再び、心臓をわしづかみされる思いだった。
『何事もなきぞ』
自意識を初期化せよ、ということか。むずかしいことだけれども、この六文字の書は呪文のごとくぼくの頭に刷り込まれた。
とはいえ、陰陽のこの世は想定外も多く「何事もありき」だ。よくもまぁ、神様は不可思議な大宇宙や多彩な自然とともに、自意識肥大で争い好きな人類を創られたものだ。そのことをふと反省した神様は人間への憐れみから、瞑想というイメージ機能を脳の一部に与えてくれたのかもしれない。
GOは、科学万能主義で抑制のきかない思考メカニズムについて書いている。

不幸にして、科学は「感覚データ」にすぎない実在とか事実の研究のためだけにしかその厳密正確な方法を適用せず、瞑想というような人間の思考には、全然この方法を用いない。中略。かりに、科学が思考のメカニズムを明らかにできたら、ここにこそ神と人間との間に両方通行の伝達手段が開かれるのだから、万事、自動的に順調にいく。(『道の原理』)

人類は世に生存する限り性として、科学と欲望の両輪がおもむくままに宇宙や生命の神秘のベールを剥がしていくだろう。しかしどこまで行ってもそれは感覚のデータ、その時々の知見にすぎず、お釈迦様の手のひらの内でしかない。それを思い知った孫悟空になり代われば、誰しもが何事もなき広大無辺な宇宙に遊ぶこともできる。
慈雲尊者の十善法語は「人の人となる道」を説いた戒律の教えだが、悲しみ苦しむ人に向かって「何事もなきぞ」と言うのは酷なことである。だが時の流れがその心を鎮めたとき、この六文字は“神と人間との間”の扉をひらく真言の鍵となるに違いない、と。カミさんにはガンコな縄文人と言われたりするぼくはそう考えている。

永遠の少年GO・平野隆彰
「Macrobiotique 2014年2月号」より(日本CI協会発行)
註:GOとは・・・ジョージ・オオサワこと桜沢如一。

※ 法楽寺のギャラリー(小坂奇石記念館・リーヴスギャラリー)