「ボクは親子どんぶりを食ってから死にたい。」

山本嘉次郎(やまもとかじろう 一九〇二~一九七四)
おびただしい東宝喜劇映画を作る一方、「馬」「ハワイ・マレー沖海戦」など道標的名作を残し、

黒沢明、高峰秀子、エノケンなどを育てあげ、カツドウヤと自称した映画監督・山本嘉次郎は、戦後はこれといった作品を作っていない。
しかし、生活を愛し、スコッチウイスキーを好み、親子丼の発明者は自分のおやじ(明治のころ岩谷天狗煙草の支配人)だと唱え、
「ボクは親子どんぶりを食ってから死にたい。それも、そば屋から出前されたようないい加減なものではなく、自らの手で精魂を傾けて仕上げたものでなくてはならぬ」
と、昭和四十八年「文藝春秋」の十一月号に書いたほどであった。
それには、二、三十年前の東京湾で採れたものと同じ海苔、秋田の比内鶏(ひないどり)、絶滅した上山(かみやま)の酸川米(すかわまい)、上州沼田産の大豆で作った醤油等を必要とし、
「すべて根本からやり直さなければならない。これを考えると、まだまだ二十年や三十年は死ねない」といった。
しかし、それから半年たつやたたずの昭和四十九年六月はじめから脳軟化症を起し、ついで肝硬変がそれに重なった。
……外見では生活を愛し、食道楽を楽しむ趣味人と見え、しかし「仕事」のない山本嘉次郎の晩年の実態は、むろんそんなにエレガントなものではなかった。世田谷区会議員となって彼を養った千枝子夫人は記す。
「仕事の方向を失い、常軌を逸した行動に走り出した晩年の夫の姿が目に浮かびます。独特の調子で痛烈な皮肉をあびせかける夫。体をこわすとわかっている劇薬同様のウイスキーをあおって、酔いで自分の良心を殺そうとする小心の夫。いっそのこと、私の手で夫の生命を絶ち、自分も死のうと何度考えたことでしょう。不略)
それでも私には、夫が早く生涯を終りたいという気持が痛いほどよくわかりました。夫が夜中にフラフラと台所へ行ってウイスキーやビールをベッドに運んでいることも知っていました。その空きビンがベッドの下に山のようにあることも知っていました。
なぜ、そんなに死に急ぐのですか。そう思っても私はそれを口にすることはできませんでした。夫一流のダンディズムがわかっていたからです。敗残の老監督は、夫のいちばんいやがる姿だったのです。
三鷹の杏林大学に入院した夫は、一ヵ月間というもの、ほとんど食事に箸をつけませんでした。何を出しても食欲というものを見せませんでした。医師もついにサジを投げて退院することになりました。帰宅して、まっさきにいったのは、『酒』のひとことでした。こうして夫は終幕に向って突っ走ったのです。――」(山本千枝子『カツドウヤ女房奮闘記』)
九月二十一日の昼ごろ、しきりにオスシーとつぶやくのを、やっとウイスキーだと聴きわけ、夫人がスコッチを脱脂綿にひたして口にあてがってやると、うまそうにチューチューとそれを吸った。
午後七時五十五分、眠るように息をひきとった。親子丼とはいかなかったが、からくも食通の最後の面目は果した。

出典:『人間臨終図巻 下』 山田風太郎 徳間書房(1987)

コメント:大学で医学を学んでいる作家・山田風太郎は、晩年の著書『あと千回の晩飯』でひたすら死への行進をはやめる老後と、それに逆らうように、いのちを燃やすために「食う」行為のおかしさを自虐的にユーモラスに書いている。本書は、世に知られた歴史的人物の死に際をスケッチすることで、自らの死の覚悟を学んでいる。上下巻で数百人(十歳で死んだ人々~百歳で死んだ人々まで)を取りあげ、医学的?に冷徹に、ときにはやさしい眼差しで眺めているが、その臨終の際で「食」に執念をもやした人物は意外と少ない。ほんとうはもっといるはずと思うのだが・・・。なお最近は文庫本も出て巻数も多い。