食医・石塚左玄の有名な「夫婦アルカリ論」

緒論 夫婦アルカリ論

『論語』に「物事の根本が確立してこそ道理が成り立つ」とあるように、「食事が確立
してこそ人間が成り立つ」と言える化学的な証拠があるのである。

さて、世間のことわざでは「土地柄によってちがった人間ができる」というけれども、実は、食物が人を左右するものである。つまり、食事の摂り方によって、人の身長も高くなったり低くなったり、太ったり、やせたりする。また、人を健康にしたり病弱にしたり、勇敢にしたり臆病にしたり、判断力の優れた人にしたり才気ばしった人にしたり、長寿させたり若死にさせたりするだけでなく、精神的にも柔軟にしたり粗剛にしたりする。つまり、高尚・静粛・穏和・優美になり、あるいは、野卑・喧噪・強情・卑劣になるのも、無論、食物が原因なのである。
そこで、私は先に「夫婦アルカリ論」として『化学的食養長寿論』という本を著わして、世間に発表したが、その緒論の書き出しに「物が釣り合いを失えば音を立てる。食が釣り合いを失えば病気になる」と掲げた。まことに食養の道は、人間が成長し、生命を保つ上で非常に大切なものである。食養を行なうには、その人の住んでいるところの位置・地形、暑いか寒いか、湿気が多いか乾燥しているかとか、そこにできる食物の種類に応じて、それぞれちがえなければならないが、ひと言でいえば、郷に入りては郷にしたがい、俗に入りては俗にしたがう食養法を実行すべきであって、これは化学的に反論の余地のない道理があるのだ。
しかし、最近の人々は、古いものを捨てて新しいものに飛びつく、交通社会に生きているので、その土地、その社会に合った生活方法を捨て、別の土地、別の社会の生活方法を取り入れるのを主とする時勢になっている。
つまり、日本のような海国に住んでいれば、環境にも体にも、ナトロン塩が多いのに、ヨーロッパ大陸のような、カリ塩の多い国の人間の真似をして、限度なしに肉を多く野菜を少なく食べるという心得で栄養を摂っていると、次第にナトロン塩の摂取過剰になって、ナトロン塩の性質である、組織が縮まり硬くなる作用が強くなり、その作用を抑制するカリ塩の、組織を軟らかくし拡げる作用が負けてしまい、発育上、保健上、食養のバランスが不良となり、国民の体つきは小さく丸くなり、入の性質についても、才気の方は発達するが、判断力は、かえって減退し、こうして肉体も精神も次第に変わってしまう。
これは、食養による心身の進歩の方針に一定の標準のない、つまり、非化学的な食養法でしかないのである。
中略

牛・馬・鶏・犬などの動物は、あまり人手の加わらない自然の食物を摂っているので病気も少ないが、万物の長といわれる人類が病気の問屋のようになっているのは、食養の道に一定の標準がないことと、食物に人手をますます加えてきたことが原因ではないか。
本書は、前著の『化学的食養長寿論』から、主として、保健体育と智才能力とに関する食養法について抜き書きし、さらに、夫婦アルカリの原理を拡張して述べ、多数の事実・例証・考案を書いたものである。
要するに本書は、体育・智育・才育は、すなわち食育である、と確かに言えるという理由を化学的に分かりやすく解説したものであり、日本は海国であって、しかも、気候はおだやかで暖かい地方にあるから、その事をしっかりと認識して、日常の食事の中の植物性・動物性の割合の問題や、それぞれの効能と害の問題を知り、料理の正しい取り合わせを実行するための一つの助けにしたいのである。


訳者注/「カリ」「ナトロン」というのは、ドイツ語のKali、Natlonを用いたのであり、今日では、近代ラテン語からの「カリウム」「ナトリウム」が用いられている。「カリ塩」「ナトロン塩」と「塩」の字をつけているのは、「カりウム化合物」「ナトリウム化合物」という意味に用いているので、つまり、純粋な元素としての「カリウム」「ナトリウム」と区別しているのである。なお、今日の化学での「……塩」という用語の正確な意味については、理化学辞典類を参照されたい〕

橋本 政憲・訳者のまえがき(一部)

一、この本は、石塚左玄著『通俗食物養生法―化学的食養体心論』(明治三十一年一月二十七日初版発行、明治四十二年ナ二月二十八日増訂版発行)の現代語訳です。
一、石塚左玄は、食物に関する研究を明治二十年代に発表し始め、それをまとめて『化学的食養長寿論』(明治二十九年六月十一日発行、本文四六四ページ)という学術書として世に間いました。これは、穀食主義、玄米食を学問的に推奨した最初の本であり、「夫婦アルカリ論」として、カリウムとナトりウムのでフンスの重要性を論証した記念碑的著作です。
一、『食物養生法』は、その『長寿論』の内容を一般向きに解説し、さらに、「食」と「肉体」と「精神」の関係を述べ、わが国に最も適した食生活法、衛生法、医学、育児・教育法の確立を唱えたものです一、石塚左玄が創始した思想と事業は、その後、約九〇年ちかくにわたって、実践の検証を経て、発展し、わが国だけでなく、ひろく欧米を初めとし、全世界に広まっています。
一、石塚左玄は、日本の国において最適の衛生法を研究したのですが、その「原理」に一般性があったので、日本以外の国でも「応用」することができたわけです。

 出典:食医石塚左玄の食べもの健康法―自然食養の原典『食物養生法』現代語訳 (健康双書ワイド版)