年越しそばとうどんの由来

そばはシベリアからインドにいたる東アジアが原産地で、わが国へは北方から朝鮮半島を経て伝わったといわれている。

栽培のはじめについては、『続日本紀』に養老六年(七二二)七月に元正天皇が蕎麦や大小麦を栽培して飢饉に備えよと勅命したという記事が見える。ここから関西のそば業者が、元正天皇をそば栽培の祖神とあがめ、毎年五月二六日天皇崩御の日に、元正天皇陵参拝を欠かさず行なったという。
ところが、『続日本後紀』では承和四年(八三七)七月の仁明天皇のときだというし、また弘法大師が唐から種を持ち帰って栽培させたともいう。さらに、戦国時代に東南アジアの崑崙(こんろん)の商船が、三河国に漂着してそばの種を伝え信州に移植し、そこから信州そばが著名になったなど、さまざまな説がある。しかし言えることは、その頃はまだそば練り、そば掻きの方法で食べていたということである。すなわち、そば粉を熱湯でかたく練って、熱いうちにふうふうと吹きながら食べたのである。

 それからやっと江戸時代も元禄(一六八八~一七〇四)のころになって、そば粉をつないで細長いものにする知恵が生まれた。初めは山芋あるいは卵、のちに小麦粉やうどん粉を入れてつなぐようになる。それを練って平たく伸ばして細く長く切って食べる。そこから「そば切り」の名も生まれた。こうして、そばが長く腰の強いものとなり、そこから「そばのように長く、長寿であるように」という意味で年越しの食用として広く普及した。
それからさらに「引越しそば」の風習を生み、「長くその地に柱めるように、長く近所付き合いができるように」といい、隣近所に配ることにもなったのである。そして、享保年間(一七一六~三六)の末頃から江戸の町にそば屋があらわれた。

 そばといえばうどんがある。うどんは小麦粉で作ったもので、奈良時代に中国から伝来し、平安時代に発達した唐菓子である錕飩(こんとん)に由来するという。すなわち、うどんの元祖は唐菓子で、小麦粉を団子のように作り、中にこれも中国から伝来した飴を入れて煮たもので、これを汁に入れて食べたので、汁の中でころころしているところから錕飩と呼ばれ、熱い湯で煮て食べるので温鈍(おんどん)と転化し、さらに食偏の文字に変形して饂飩(うんどん)となったというのである。うんどんという言葉は室町時代初期の辞典に見られ、うどんという言葉は室町時代末期から見られる。 

 こうしたうどんには、切麺(切麦)、冷麺、平饂飩、干饂飩、麦切りなどがあり、冷麺は暑いときによろこばれ、平饂飩は「ひもかわ」と呼ばれた。それは干饂飩の一種で、東海道の芋川から転じたもので、尾張の名和、下総の行徳、仙台などが名産地となった。いまは平打ちした饂飩が「きしめん」と呼ばれ、ことに名古屋のものがよく知られる。このうどんも長いことから「年越そば」にかわって大晦日の食物とされるし、また引越しのさいもそばのかわりに用いられることもある。 

なお、江戸時代はそばもうどんもいっしょに売っていたが、のちにそば屋とうどん屋が分かれ、そばは関東、うどんは関西といわれるように、主として東と西に分かれて普及した。したがって、看板もはじめはそばもうどんも一体であった。中略。 
江戸時代も末期になると、そば・うどんそれぞれ専門の店もできるようになる。

出典:『看板』―ものと人間の文化史136 岩井宏實 法政大学出版局

コメント: 最近、蕎麦屋でも「そばがき」を出す店が少ないせいか、知らない人がいるが、奥丹波そば街道の蕎麦屋(6店)では、そばがきもメニューにある。我が家の年越しそばは毎年、「そばんち」さんに予約している。うどん好きな人は年越しうどんなのだろうが、やっぱり年越しと言えば、そばだなぁ・・・。美味しい讃岐うどんなら2人前でも、本格そばなら5人前以上は食べられる。 村長