残酷の受け取り方 『騎馬民族は来なかった』より

屠畜とは残酷だという感じを私たち本土日本人はもっています。一度は屠畜を見たいと思うのですが、おそらく、かなり衝撃的だと思います。

島崎藤村の『千曲川のスケッチ』に人を怪我させたウシを処刑する、その屠畜の場面が詳しく出てきます。『破戒』にも簡単に引いています。屠畜の場面を詳しく書いたというものはあまり知らないのですが、藤村の場合は非常に詳しく書いています。
そして、おそらく、現在では、たとえばドイツの人で、普通の都会に住んでいる人びとにとっては、やっぱり、屠畜を残酷だと感じるようになっているのではないでしょうか。ところが、松原正毅(国立民族学博物館)さんに聞いたのですが、トルコでは屠畜というのは、女・子供を含めて喜々として見物するものだという。ほんとうに楽しいものなんだそうです。それで、私は脱穀というのは楽しいかどうか知りませんけれど、「屠畜は脱穀」、つまり肉食民族の屠畜は米食民族の脱穀にあたるとおもいます。

 屠畜は、本来的にはひとつも残酷なものではなかった。だけど、『戦争と平和』のなかにでてくる「殺される子牛を見て脳貧血を起す貴婦人方」は、「血を見ることができないほど、心が優しいくせに、その子牛のソース煮に舌鼓をうつのだ」。おそらく、貴族になると肉を用意する場面は全然見ないからそうなってしまうのでしょうね。『大草原の小さな家』にも屠畜の場面が出てきて、女の子はちょっと悲しくなりますけれど、膀胱をもらって、たちまち、風船をして喜ぶ話があります。
残酷さも民族によって感じ方がちがう。たとえば、西アジアでは、ヒツジを殺して目玉は一番のお客さまに提供する、と。それを出されると食べないわけにいかないのだそうだけれども、本土日本人にとってはすごいショックです。ところが、西洋の人が日本へやってきて、きれいな漆のお椀をあけると鯛の頭が入っていて、目玉がこっちを向いているのはすごいショックだそうです。略(続く)


出典:『騎馬民族は来なかった』佐原真 NHKブックス

コメント:ぼくはかつて、モンゴル乗馬ツアーで羊の「屠畜」を目の当たりにした。
羊が苦しまないように一気に屠殺するそのやり方は、「かなり衝撃的」どころか残酷さは少しもなく、厳粛な儀式のようであった。ツアー参加の若い女性の何人かが「かわいそう・・」と言って目をそむけたのはほんの一瞬だけで、内臓や皮や骨がきれいに解体されていく様を、じっと覗き込んでいた。(ただし、大草原の自然の営みだから見られたわけで、アメリカ式の大量生産の牧畜工場での機械的な屠畜は、おそらく目をそむけてしまうだろう)
そして「おいしい、おいしい」と、喜んで食べていたことを思い出す。
遊牧民は羊のいのちに感謝し捨てるのは「脾臓」だけで、血の一滴も無駄にしないで食べる。百姓が、米の一粒も無駄にできない思いと同じである。
真夏の太陽が輝く大草原で、毎日(数日)毎食、新鮮な羊の肉をいただいたがまったく飽きなかった。その世界に住めば、その世界に適応するのが人間という生き物なのだ。適応せずにどうして生きていけようか。
 

本書は、有名な江上波夫の学説「騎馬民族征服王朝説」を真っ向から批判するものだが、その論拠のひとつが農耕民(日本人)の屠畜に対する嫌悪感をはじめ、家畜を去勢しない習俗などである(畜産民は家畜を去勢する)。「肉食民族の屠畜は米食民族の脱穀にあたる」というのはどうか(比較の見当違い)と思うが、今はぼくも、騎馬民族征服王朝説には少なからず疑問をもっている。ただし、多民族日本人のなかに騎馬民族の血も流れている(騎馬民族は来た)のは確かだとも思っている。