「考える」は「祈る」ことであり、「瞑想する」ことである

それは突然死だった。寿命はわずか4年のノートパソコン。メカに弱いぼくは慌ててPCを買い業者にデータを再生してもらった。

手のひら半分程のメモリー装置に膨大なデータを記録していることが不思議でならない。
不思議といえば我が家の猫も。「この子、何考えてるんやろう」「何も。脳みそ20グラムしかないから」「失礼な、25グラムはあるよ」十歳を過ぎた三毛猫フーコを前に、ある日の我が家の会話である。
庭の犬小屋には「道の駅」で7年前に拾ったミッチーがいる。段ボールに捨てられていたシバ犬の雑種、目元がとてもキュートで一目ぼれした。でも彼女も「何を考えているのか」さっぱりわからない。ボール拾いが大好きで誰にもシッポを振るところは、警戒心が強い食っちゃ寝のフーコと対照的だ。猫は猫らしく犬は犬らしく生きている。
「思う」と「考える」の違いについて、GOはこう書いている。
日本語には、「思う」「考える」という二つの言葉があり、この二つが、二種類の想像力の違いを明確に区別する。「思う」という言葉は、何らかの利益について「重さをはかる」というのに似ている。これに反し、「考える」は「カンガエル」「カミガエル」で、つまり「神に帰る」ことを意味する。「考える」は「祈る」ことであり、「瞑想する」ことである。「祈る」という言葉が「考える」にいちばん近い。(『道の原理』)
「思う」という働きは合理的に認識・記憶再生することで、考える(カミガエル)のほうは時空を超えて自由に飛躍することだ、と。だがヒトは本能から遠ざかったため、精神科医を繁盛させる「思い・煩う」ことが増えたのだろう。
ミッチィーと遊ぶ高台の畑から夕陽を眺めながら「猫と犬のどちらがカシコイのか」とぼくは考えていた。結論は出そうもなかったが、彼女たちの意識は「思う」という神経メカニズムではなく、本能のまま「勘ガエテ」いるように見える。
山に沈む夕陽に向って佇むミッチーは無心に祈っているようでもあり、その後姿が何とも愛おしいのであった。

永遠の少年GO・平野隆彰
「Macrobiotique 2013年12月号」より(日本CI協会発行)
註:GOとは・・・ジョージ・オオサワこと桜沢如一。