『魔法のメガネ』の幸福論

"陰陽の無双原理"をさやしく説く

始めあるものにオワリあり
表あるモノにウラあり
表大なればウラも亦大なり  
        如一mahounomegane.jpg

桜沢如一は、陰陽の「無双原理」を端的に表現するのに、好んでこのコトバを書き残したようだ。
故丸山博先生(大阪大学教授)のお宅にも、この文言が残っていた。色紙に揮号するといったものではなく、何気ない会話の折にその辺にあった厚手の紙にペンで走り書きしたような文字である。文字に力みがないだけに、桜沢の確信(サトリ)が伝わってくる。 当たり前のような言葉だが、宇宙といのちを抱きかかえた、奥深い意味が込められている。

BOOK紹介

「魔法のメガネ」桜沢如一

丸山光代さんを訪ねて

平成22年4月22日、生前の桜沢如一を知る一人、故丸山博の夫人である丸山光代さんを友人とともに訪ねた(かれこれ20年前、私(平野)はその友人に誘われて、丸山夫妻とともに岡山への温泉旅行に同行したことがあった。また、その後も京都の火祭りにも一緒に行ったことがあるが、深いお付き合いでもなく、箕面市にある丸山宅を訪ねたのは初めてで、光代さんは、さすがに私の顔は覚えておられなかったようだ)。
掘りごたつのある六畳間で2時間あまり取材させていただいた。95歳というご高齢にもかかわらず、記憶力バツグン、話す言葉は簡潔明瞭、淀みなく清水のごとくわき出てくる。
「桜沢先生との出会いがなかったら、骨と皮みたいな主人は87歳まで生きられなかった。私も若いころは病弱でしたから、食養をしていなかったら、こんなに健康で長生きすることはなかったです。すべては桜沢先生との出会いのおかげですよ」。
光代さんは長い間、正食の料理研究家として料理を教え、いまなお原稿を書かれている。

 
アーユルヴェーダ医学の日本の先駆者

夫の丸山博は、学者としてはインドのアーユルヴェーダ医学を日本に紹介した先駆者だったが、そのきっかけをつくったのも桜沢だった。
昭和11年(1936)、フランスから帰国した桜沢は、大阪では有名な渡辺という漢方医の家(甲子園)を訪ねてきた。渡辺は2年前に亡くなっていたが、渡辺に親炙していた医学生の丸山は、その家で桜沢との運命的な出会いをすることになる。当時、桜沢は43歳、丸山(明治42年生まれ)は27歳。
その後、文通などの交流が続いていた丸山に、インドにいた桜沢から「アーユルヴェーダはインドの食養だ。これは面白いから研究する値打があるぞ」といった内容の手紙が届いた。桜沢の食養を実践した光代夫人のおかげで健康を維持していた丸山は、桜沢の助言に素直だった。

昭和47年(1972)、桜沢が亡くなった(1966年)6年後、丸山は「桜沢如一先生著作刊行会代表」として、『魔法のメガネ』の第三版(日本CI協会発行、初版は昭和15年)の序文を書いている。
本書は、青少年を読者対象に、無双原理の陰陽をドラマ仕立てで分かり易く説いたもので、「物の見方、考え方」(陰陽の原理)を知り、それを実践することで、健康で幸せな一生を送ることができる、という内容だ。
桜沢の幸福論は、本書の序文にも紹介された次の言葉に要約される。
「少年時代の楽しいタクサンのユメを一つ一つ、実現し、スキなコトをタンノーするまでやりぬき、オモシロイ、ユカイな一生をおくり、しかも、すべての人にイツまでも長く愛され、よろこばれる長い長い一生を生きること」

桜沢が広めたマクロビオテック(食養法、正食)は、とかく世間が誤解するような単なる食養健康法ではなく、つまるところ実践的人生哲学を根底とした幸福論であることが、少年の素直な心に立ち帰って『魔法のメガネ』を読むとよくわかる。それにしても、「スキなコトをタンノーするまでやりぬく」というのは、なかなか簡単なことではないのだが・・・。   T.H